2012年4月7日土曜日

法と道徳の関係


 

 

  なぜ人を殺してはいけないのか」すべてはここからはじまった

  私が法哲学に興味を持ったのはこの言葉がきっかけだ。この疑問は、単なる論理的思考のための材料として自分に投げかけていたテーマである。戦争や死刑など「人を殺してはいけない」という前提に矛盾する現状は多々ある。また自分が自分自身に対して行う殺人「自殺」も矛盾する現象である。たしかにそれは社会秩序維持のためとして説明する事は簡単である。しかしこの疑問が単なる素朴で稚拙な問いかけであるにもかかわらず、この疑問を口にする事は、避けてきた。なぜかと考えると、この問いを発したら誤解されると思っていたからである。私はただ純粋に論理的思考訓練のための材料であると思っていたが、しかしそれでもこの問いかけはまわりに不快感を与えることは肌で感じていた。私自身は哲学的な� �ーマに対しては感情的にならずにできるかぎり客観的であろうと努めているので、その疑問に対する出どころ不詳の不快感はあまり感じないが、それでも人々に与える何らかの影響力がその問いかけには内包されることは知っていた。その奇妙な不快感、それはいったい何なのだろうか。

  1997年の神戸児童殺傷事件のあとにおこなわれた、某討論番組での有名な一場面。「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供からの問いに知識人は一瞬絶句し、そしてそのあと、呆れてしまう人間もいれば、怒り出す人間もいた。しかし誰もまともに答えられなかった。論理的思考に慣れている人であってもそうなのである。理性をどこかに追いやってしまうほどの威力を持つその問い、その力の源泉はどこにあるのか、またそれはいったい何なのか。理性的な会話に慣れている論者をも直観的な不快感に翻弄させた、その原因はどこにあるのか。私はこの難題に挑戦してみたいと思った。

  この問題はただ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に限られるものではない。「なぜ法に従わなくてはならないのか」これは「なぜ法に従っているのか」という問題に還元できる。なぜ私たちは法に従っているのだろうか。なぜ私たちは人を殺さないのか。

 

法というものを常識的に簡単に定義すると、「秩序のために作られた人の行動を規律するルール」とでも言える。哲学者の意見はともかく、一般認識では法とはこういうものを指している。人間として生きていく限り、社会集団の中で他人と共存していかねばならない。その状況の中で生き残るためには一定の基本的禁止事項からなる共通ルールを作り、その社会集団の構成員がそれを共通して遵守する事が必要である。ルール遵守を維持していくためには、他人に強調しないでルールを乱し、またルールに従って生活している人に危害を加えるような者に対する制裁、ルール遵守の強制、などのシステムも必要である。

  法秩序はこのような理由から出現し上記のような基本的特徴を備えている。そしてこの秩序は「社会やそれに所属する者にとって重要なもの」をベースにしてルールが作られる事から、その中には不可避的に「道徳律」が含まれる。道徳は他人と協調しながら社会の中で生き残るため、心地よく生きるための約束事ともいえよう。法は秩序を維持するためのルールであるし、制裁や強制に裏付けられた実効力をもって、社会集団の秩序維持を遂行するのである。よってまず、その社会集団が何を重要と考えるかによって、その要求されうる約束やルールが変わってくる。集団構成員が社会に要求するものと、法が社会の要求するものがかけ離れていたら、構成員が自ら進んで法を守ろうという感覚を持つことは無いだろうし� �「集団の共通の価値を守る」という法の意味が薄れるだろう。であるから人々が道徳と考えるものを妨害する行動で、見逃す事の出来ないような行動を罰したり規制したりするものが法となるだろう。その道徳は社会集団の構成員の大多数が同意するものであり、大多数がルールを守ることで、秩序は維持され、法の役割が果たされるのである。このように法と道徳は重なり合う部分が多々あるのである。

  その社会秩序の為のルールである法、その内容は時代や地域によって様々な内容にあふれていて、ある時代には犯罪(悪)にされたものが、次の時代には犯罪と認識されない(善)こともよくある。なぜそういった事が起こるのか。それは時間と場所、時の古今と洋の東西において価値観の違いがあるからである。またその道徳は社会の変化に応じて変化し、それを追うように法も変化していく。

 以上が一般的な、法と道徳の関係に対する意識である。法と道徳の間には切っても切れない関係があること、道徳を踏まえて法が作られていること。法の領域は道徳の領域と一致はしないが、かなりの領域が重なり合い、影響しあっていることは誰の目にも明らかである。

 そしてここから自然法論と法実証主義の対立は始まる。道徳を法に必然的なものと考えるか、そうではなく区別するべきか。前者は一般的には道徳的直観といわれているものの存在を仮定する。その仮定の仕方はさまざまである。自然法則からその存在を導き出すものもいる。極端な思考であれば「神」の存在と同列に扱われる。理性を純粋化していけば発見できるものだと考えるものもいる。後者はその存在うんぬんを考慮しない。明確に区別するのである。道徳は変化するものなのだから、もちろん道徳的直観というものも幻想に過ぎない。このスタンスから思考をはじめている。つまり自然法論であれ、法実証主義であれ、その源泉は同じなのである。人間の知性では到達できない「道徳的直感」があるらしい。� ��れに基づいて法を判断しようというのが自然法論。それは内容がよく分からないから法とは区別しておこうというのが法実証主義。この二つの思考方法はかなり異なるが、しかし根幹は同じである。「道徳的直感には触れないでおこう。」道徳的直観は幻想であるかもしれないし実際にあるのかもしれない。その存在は人間の理性では辿りつかない高みにあるため、判断は不可能かもしれない。しかしその困難を理解しつつ、それを真正面から捉えようとする試みこそが、法の根拠を見出す作業となるのではないだろうか。

 また道徳的直観自体の意味と内容、そして道徳的直観が存在することを認識している人間の思考の意味と内容、それらは区別して考えていく必要がある。つまり道徳的直観があるとしたらそれは何なのかという問題と、道徳的直観の存在を「信じる」という人間の思考は何を意味しているのかという問題である。それはこの論文の中では「外的視点」と「内的視点」という言葉で表現されている。「外的視点」と「内的視点」、私は特に内的視点にこだわって、法の根拠としての可能性を持っている道徳的直観を考察していきたいと思う。

 

法と道徳の関係■目次

 

第1章 法とは何か    エラー! ブックマークが定義されていません。

第1節  法を定義する  25

第2節  二つの理論   25

1.2種類の答え方    25

(1)古代ギリシャからの法の概念の対立とその影響    26

(2)中世の自然法論    27

(3)啓蒙思想    27

(4)イギリス分析法理学    28

(5)さらに進んだ法実証主義    28

(6)自然法論の再生    28

第2章 法と内在的道徳    29

第1節 はじめに   29

1.正義論・法の一般論・法律学的方法論    29

(1)正義論    29

(2)法の一般理論    29

(3)法律学的方法論    30

第2節 H.L.A.ハート  30

1.ハートの法理論に入る前に   30

(1)「定義づけ」への疑問    30

(2)ハートの思想的背景    30

2.『法の概念』の要約    31

(1)法的概念の明確化のための分析枠組    31

(2)内的視点・外的視点    31

(3)第一次的ルールと第二次的ルール    32

3.道徳を範疇に入れた法実証主義    32

(1)法と正義と道徳    32

(2)自然法の最小限の内容    33

第3節  ジョン・ロ−ルズ   34

1.正義論    34

(1)ロールズ正義論の背景    34

(2)正義論の内容    34

(3)万民の法    35

第4節 ロナルド・ドウォーキン   35

1.ドウォーキンの思想的背景    35

2.司法裁量論    35

第3章 道徳的直感    36

第1節  法に共通するもの   36

1.自然法論と法実証主義    36

2.目的論的自然観    36

3.ハート「自然法の最小限の内容」  37

4.ロールズ「正義の二原理」  37

5.ドウォーキン『原理』  37

第2節 法の妥当性   38

1.内的視点の欠如    38

(1)消化不良の原因は    38

(2)内的視点の意思的要素が欠けていた   38

2.法の妥当性    38

(1)共通ルールに対する意思    38

(2)蟻(アリ)と人間の違い   38

(3)赤信号と道徳    39

(4)休憩としてのまとめ   39

3.ふるいにかけられた法    39

(1)法の階層構造    40

(2)ピラミッドの頂点に来るのは真理?    40

第3節  正義の実現に必要なこと  40

おわりに    41

 

 

参考文献一覧

 

 

第1節  法を定義する

 

定義とはH.L.A.ハートの言葉を借りると次のように、定義されている。「定義は主として定義という言葉が示すように、言語の上で別々の言葉によって際立たされているある種のことと、他の種のこととの間に線を引き区別をすることである。

例としてトラの定義をしてみよう。百科事典を引くとこのように記述されている。トラは、ほとんど肉のみを食物としている「哺乳類」のグループである「ネコ科」に所属している。しなやかで敏捷な体、やわらかな体毛、すぐれた視覚と聴覚、獲物をとりおさえ、ひきさくのに適した爪と歯をもつことが、この仲間の類似した特徴であり、トラはその「最大型種」にあたる。主にアジアに生息し身体は約2メートルから3メートルあり、「黄褐色の毛に暗色の縞」がある。ここで4つの言葉に注目してみよう。「哺乳類」「ネコ科」「最大型種」「黄褐色の毛に暗色の縞」トラはこの4つの言葉で定義できるのである。爬虫類ではなく、草食動物でもなく、すぐ近所で見ることができる体長40センチほどのネコとは違い、ライオンやチーターの毛皮の柄とも違う。このように最近類と種差による定義づけはもっとも単純で、誰もが納得できるものであろう。ではこの方法を用いて、トラと同じように法を定義する事は可能なのだろうか。

それは、できない。なぜならトラとは違い、法の定義をする際に用いられる言語自体があいまいで混乱した概念を持っているからである。例えば有斐閣法律用語辞典を引いてみるとこのように書いてある。「ほう【法】社会生活を規律する準則としての社会規範の一種」きわめて常識的な答えである。しかし「社会規範の一種」一種とまでしかいえないのである。それよりも下位の概念のことは辞典にも書いていない。この程度の定義では、社会生活を規律するものとしてマナーや礼儀もあげられるし、もしくは夜眠り昼働くという地球の自転に関係する自然科学的な事柄ですら、例外はあれどもたいていの人々の基本的社会生活のリズムはそれを基本にしているということから、社会生活を規律しているとい� ��るかもしれない。そしてこの法の定義の困難さが「法とはなにか」という一見単純な問いかけを繰り返すはめになった原因なのである。もちろん法の概念を捉えようとするときの障害となるのは、言語的な問題だけではないが、ただ「法とは何か」を考える時に社会学的に様々な社会の法体系の事実を調査すればおのずと見えてくるだろうという、常識的で現実的な意見に対しての、もっとも有力な反論として、法を考えるうえでの困難の一例として言語的なあいまいさを挙げた。

 

 

1.  二種類の答え方

 

法とはなにか」と問われて、瞬間的に浮かぶのは「殺してはならない」「盗んではならない」「約束は守らなければいけない」などの基本的な命令や禁止の文言ではないだろうか。確かに法には、命令や禁止といった要素が含まれている。社会の中で紛争を予防し、また解決するために上にあげたような作為と不作為を求めるものが法である、というのは納得しやすい論理ではある。しかし、命令と禁止、それだけで、法の役割が終結しているのだろうか。その命令や禁止を人々が遵守する理由は「法は命令である」という答えだけでは見えてこない。命令の妥当性はどこにあるのかという疑問が当然生じてくる。(渥美『法の原理T』3頁)

また人間社会における法というのも、自然に見られる法則と同じものなのかという考えも挙げられるだろう。星の運行のように一定の法則が発見でき、それに従えば自然に生活が出来るとか、どんぐりであれば、その成長過程で鳥に食べられもせず、日あたりもよく水分も適度に補給される環境にあれば、数年後には樫の木に成長するだろう、などというような自然科学的事実から、人間の社会も「自然に従った」法があるのではないか、という考えもある。言い換えれば「自然な」とか「普通の」という言葉で表される、人間に共通する感覚を探求し、それに従ったものが法であるということ考えである。(ハート『法の概念』207頁)

この二つの考え方は、まったく違った観点から法を捉えようとしている。第一の例は法の内容の分析をしようとしている。法の中に、命令や禁止などの要素を見つけ、そこから法体系に共通する要素を見出そうとしている。第二の例は法の内容の分析と言うよりも、人間にとっての法の存在の意味自体を問おうとしている。法とは、人間に共通する法則とまではいわないでも、「法感覚」とでもいうような共通する感覚があるのではないか。「法とはなにか」という問いかけに対する、これら二つの異なる解答方法から、法哲学ははじまったのである。

さて、ここで法と道徳の関係に戻ってみる。上に述べた二つの解答方法は第一が法実証主義と呼ばれ、第二が自然法論と呼ばれている。法と道徳とは、単に事実上の関係があるだけでなく、より必然的な結びつきがある。道徳的規準という、より高次の道徳原理が存在し、その先験的な原理から、本当の法が導き出されるものだ、とするのが自然法論の考えである。それに対して法と道徳の間には概念上の結びつきはなく、法の存在は、それが道徳的に優れているか否かという問題とは区別して認識されるべきものだ、とするのが法実証主義である。これは極めておおざっぱに、二つの解答方法を説明したものである。以下の二節で古代ギリシャからの古い話題である、自然法論と法実証主義の対立について説明し� �いく。そして、これを土台にして二十世紀の法思想に移っていきたい。

 

(1)古代ギリシャからの法の概念の対立とその影響

 紀元前5−4世紀のソフィスト達は法・慣習と自然(ノモスとピュシス)を区別し、法とは自己利益に根ざした人為的に作られた規制の形式であり、自然の自由に逆らうものととらえた。(田中『法理学講義』20頁)ソフィストの代表人物である、プロタゴラスは、万物の尺度をロゴスではなく人間と考えた。人間は経験的なものであると考えたプロタゴラスは、客観的真理を否定し、真理は知覚する主体に関係付けられ、そのため真理は相対的であるとする。しかしこの主観主義は個人的ではなく集団的なものである。そこで何が等しく、何が等しくないかを決めるのは、多数決となる。では、その集団は何が等しく、何が等しくないかを、何に従って判断するのだろうか。それにはこう答えている。人間が法に従う理由というのは自己利益以外の何者でもない。この既存の法制度に対する批判的で客観的な姿勢は、のちの法哲学の理論的枠組の基礎を作ることとなる。また「自己利益」という考え方は、のちの19世紀に出てきた功利主� �の考え方の基礎にもなっている。

 ソクラテスは、なぜその法に従うのか、その命令や禁止に従う「べき」理由をといた。命令や禁止に背いた場合に、制裁が用意される。その制裁への恐怖心から法を遵守しているのだとすれば、それは道徳的に正しくない。「べき」理由とは、イデアやエイドスといった、ものの有性(本質)を意味している。法が法であるための有性を、ソクラテスは求めた。例をあげよう。


誰状態で連邦政府の健康保険の問題を連絡する

「君は"敬虔なもの"とは一体何であるかとたずねられて、それの有性(本質)を明らかにしようとしないで、その"敬虔なもの"が蒙ることになっているある限定、すなわち"皆の神々によって愛される"をそれについて言おうとしているようだ。しかし何で有るから、そうなのか、それはまだ言わなかった。」

 

これはソクラテスがエウチュプロンと、敬虔と不敬虔の定義について討論しているシーンである。この「敬虔なもの」を「法」に置きかえれば、ソクラテスの法への姿勢が分かるだろう。置きかえるとこうなる。「法がなんであるかとたずねられて、その有性を明らかにしないで皆が守っているという事実を言おうとしているようだが、それが守られるべき理由を明らかにしていない。」つまり、ここでも、「べき」の根拠を執拗に探求している。ソクラテスは内省的な思考から、法の根拠を人間の胸中に探している。後述するトマス・アキナスとは異なりここにはキリスト教的神の存在はない。もちろん、当時はキリスト教が発生していないから、それは当然のことではあるが、重要なのは、ソクラテスは人間を超越するよ� ��な絶対的な根拠というものをトップダウン的に採用していないと言うことなのである。そのために、ソクラテスは様々な観点から有性を見つけ出そうとし、道徳的に根拠のない不正な法にはその疑問を直接ぶつけた。彼は人倫的な世界理性を無批判的に信仰することはなかったが、しかし他方でソフィストの主観主義と相対主義についてはそれを乗り越えようとしたのである。

 ソクラテスの弟子であるプラトンは、強制権力の単なる適用によって法が制定されるのではなく、理性的推論過程の結果として公共規定が表現されると考えた。つまり法とは、ただの強制的な命令や禁止ではなく、理性の裏付けがあると考えたのである。プラトンもソクラテスと同じく、もっぱら主観的な意見に由来するのではなく、普遍妥当な知を表す思考内容、つまり感覚世界の転変と不確実さから逃れ、それ自身永遠に同一でありつづける思考内容を模索した。しかしプラトンはこの真理の領域を、ソクラテスとは違い、人間の胸中ではなく現世の全現象の集合にある真なる存在としての絶対的な諸理念(イデア、エイドス)の中に見た。ここでプラトンは正義の静止的要素を語ったのである。

 アリストテレスはプラトンのイデア論を自然概念に結びつけた。自然にかなっているものは最良の状態である、と彼は説いた。そして自然の一部である人間は自然のテロス(目的)に従う秩序に規律されるといった。また彼は正義の分析に力を注いだ。正義の核心は平等である。しかし平等と言っても様々で、例えば後に述べるカントはそれを数量的な平等ととった(歯には歯を)。

これに対してアリストテレスは平等を比例的なものとして認識していた。等しいものとは過少と過多の中間にあり、比例的なものである、と考えた。また彼は2種類の正義を区別した。均分的正義と配分的正義である。均分的正義とは水平的平等とも言いかえられる。現実には不平等な状態にあったとしても法律の前では平等な各人に、平等に給付や反対給付をすることである。配分的正義は垂直的平等と換言できる。それは複数の人格の取り扱いにおける比例的平等を意味する。それは、価値にふさわしいこと、能力、必要性といった尺度に従った権利と義務の分配である。この分類は現在の法思想にも、特にジョン・ロールズにその影響が多く見られる。

 このように、実定法を単なる強制権力の発動としてみた人々と、法の中に何らかの理性の必然的な表現を見出した人との対立は紀元前5世紀から始まっているのである。

 

(2)中世の自然法論 

この後、中世においては世界像、人間像が、さらに静的、客観的になり、アウグスティヌスにおいてはすでに中世的自然法の特徴となっている次のような段階秩序が見られる。つまり、最上位に「永久法 lex aeterna」が存在し、「自然法 lex naturalis」は永久法を反映しているのだが、人間の意識におけるそれは、永久法そのままを映し出すものではない。そして最下位は「時間内的法 lex temporalis」であり、それは一定の時代において、命令や禁止を確定する。しかしそれは永久法を基盤に持つ限りにおいて、拘束力を持つのであり、それに背く不正な法は「法」とはいえない、という。(カウフマン『正義と平和』160頁)

 そしてキリスト教的自然法は、トマス・アキナスの神学的自然法論によって、頂点を迎えた。これは(1)真の道徳・正義についての原則が存在し、それは神に由来するけれど人間が理性で発見でき、(2)この原則に衝突する法は法と認めない(「不正なる法は法にあらず」Lex iniusta non est lex)、というものである。(ハート・170頁)トマス・アキナスの自然法論はおおざっぱに言えば、神の法にあてはまらない法は、法ではないというものであるから、キリスト教を信仰していないものにとっては納得しがたい意見である。それでも現代にまで影響を与え得る要素を彼の理論は持っている。例えば、人定法の中には神の摂理である「原理」と、その原理を適用する対象の個別的性質に従って作られた形式や公式があることを明らかにしているが、それはのちのドウォーキンの原理、原則の区別に影響している。また、人間の理性には必然的な「思惟理性」と条件によって変化する「実践理性」とがあることも語っていて、それはカントの純粋理性と実践理性の考察に役だっている。

 

(3)啓蒙思想

近世初頭の啓蒙期において古代ギリシャのノモスとピュシスの概念が再考されることになる。自己利益は「功利主義」と言いかえられた。この立場は法に従う理由を自然に求めないかわりに自己利益に求める。自己利益とは、法体系が確保する安全と欲求の相対的な満足はもっとも強いものでさえ平和を期待できない無政府の社会の絶え間ない闘争よりも望ましいものである、とホッブスは考えた。つまり、「利己的な」ルールに従うのは、社会の安定のためであり、それは自分の安全を確保することにもつながるのである。戦闘状態よりも平和状態のほうが自己保存にとっては有効であるから、そのためであれば自然権をその社会の構成員達が互いに放棄し(社会契約)、その平和状態の実現のために、その権利を絶対権力� ��預けその絶対権力がするのが法となる。これがホッブスの考え方である。そしてここから「実定法は主権者の命令である」という法実証主義の立場が導き出される。(渥美・30頁)

これに対してロックは、法とは自然状態にある個人が社会性に従って多数決で相互契約を取り決め社会を作り、その社会は政府機関に社会構成員の自然権の確保を信託し、その表れでたもの、と考えた。ホッブスと異なるのは、自己の自然権を確保しているという点である。ロックは「統治二論」(1689)において、ホッブスが考えるような王権神授説や自然状態を攻撃した。ロックによれば、主権は国家にではなく市民にあり、国家が至高のものであるのは、それが市民といわゆる自然法によって拘束されている場合だけである。自然権、財産権、政府がこれらの権利を保護する義務、多数決原理などについてのロックの思想の多くは、のちにアメリカ独立宣言や合衆国憲法に具体化される。(渥美・31頁)

そしてフランス革命を支えたルソーの思想は革命的民主主義の思想であった。国家は個々人が互いに結合して自由と平等を最大限に確保するために契約することによって成立するという、彼もまた社会契約の思想を持っていた。ルソーにおいては、自然状態は未開状態として定義され、この次の段階として、文明の状態が設定される。未開状態は人々が孤立している状態であるが、文明の発達とともに社会的関係が生じる。経済活動の発達とともに人間は豊かになるが、貧富の差による不平等と隷属が生じ、人間は自由を失うことになる。このような状態を脱するために、社会契約によって新たな国家を形成する必要が生じるのである。この契約において、人々は国家に対して自己を全面的に譲渡し、国家と個人はいわば� ��合するにいたる。これによって人間は、共同体の自治の主体、主権者となり、本当の自由を実現することができるのだと主張した。(ルソー『社会契約論』28頁、ルソー『人間不平等論』41頁)

  カントもこの時期に法における人間の理性の範囲を考えた。カントの批判哲学の根幹をなすのは「純粋理性批判」であり、その目標は人間の認識能力を見極めることにあった。前述したように、純粋理性と実践理性はトマス・アキナスの思惟理性と実践理性の思想を受け継いでいる。その結果明らかにされたのは、人間の認識能力は、世界の事物をただ受動的にうつしとるだけではなく、むしろ世界に能動的にはたらきかけて、その認識の対象をみずからつくりあげるということである。カントは理論理性につづいて、「実践理性批判」で実践理性を分析した。彼の倫理学は、理性こそが道徳の最終的な権威だという信念にもとづいている。どのような行為も、理性によって命じられた義務の意識をもっておこなわ� ��なければならない。理性による命令には2種類がある。「幸福になりたければこのように行為すべし」というふうに、ある目的のための手段として行為を命じる仮言的命令と、無条件に「このように行為すべし」というふうに、人間一般につねにあてはまる定言的命令である。カントによれば、定言的命令こそが道徳の基礎である。(カント『実践理性批判』260頁)この無条件の命令こそが、道徳的直観と呼ばれるものであり、私は、このことについて最終章において、詳しく考察する。 

これらの近代自然法論まではキリスト教を基盤にしたり、理性を基盤にしたりと、その視点は様々であるが、しかし正議論が中心に展開されてきた。しかし、それらの主張が実定法システムにも反映されたことや、ベンサムなどによる厳しい批判にさらされたこともあって、19世紀以降、全般的に法実証主義が法哲学のイニシアチブをとるようになってきた。その結果、自然法論はジョン・ロールズの『正義論』の発表まで下火にあった。ではどのように攻撃されたのか見ていくことにしよう。

 

(4)イギリス分析法理学

ベンサムは、ある行為がただしいのは、それが「最大多数の最大幸福」を生みだす場合であると考えた。そして快楽と苦痛について数学的に計算をすることで、正しい行為と正しくない行為を区別できるといい、快楽と苦痛によってさまざまな価値がきまってくるのであれば、人間の快楽や苦痛とはかかわりなく存在するとされる自然権や自然法という考えは、意味のないものとなると論じた。

ベンサムの功利主義を引き継いだジョン・スチュアート・ミルは快楽の強さだけではなく、質の違いにも言及し、ベンサムのそれをさらに発展させた。ベンサムがあらゆる快楽を同じように計算することができると考えたのに対し、ミルは「満足した豚よりも満足しない人間であるほうがよい」といい、快楽の質の違いを強調した。またはミルは自然法論に対してこのように主張する。自然の法則と人間の法を一緒に考える誤りは「法」の多義性から生じた。自然現象のように科学的(観察・推論)に発見できる法則は「記述的」といわれ、人に一定の仕方で行動せよという法は「指令」あるいは要求であるため確立できないのである。自然現象の法則に反したことが起これば、それは法則としての地位を� �う。しかし法に反したことが起こっても、それは依然として法である。(ハート・204頁)

自然法を激しく批判したベンタムやミルは自然の規則性も神が定めたという観念が自然法論者に残っているから法の意味を混同するにいたったと主張した。これは当時イギリス思想界を席捲した経験主義 に基づいた主張である。そして彼らは法を合理的な理性の発露とは考えず、在る法を分析する方向に思考を預けた。この後、法の概念についての議論パターンがオースティンによって整理され、法実証主義は、さらに分析的傾向を強めていく。

 

(5)さらに進んだ法実証主義

オースティンは、法の概念を、命令及び習慣という非常に単純な要素によって分析しようとした。主権者から発せられる命令は制裁によって裏付けられ、市民に義務を課す。では「命令command」とは何か。ある人が他人に対して「こうすべきだ」とか「すべきでない」とかいった願望を表現するとき、命令法と呼ばれる言語形態が通常用いられる。命令法には様々な形態があり、いくつかの主要なタイプに分類できる。例えば「すみませんが、塩を取って下さい」という『要請』。これはそれに応じないからといって、差し迫った状況になるわけでもなく、またそれをしなかったらどうなるという威嚇があるわけでもない。ただ、そのサービスができる状況にある人に、願望を話しているだけである。また、「私を殺さないでくれ」という『嘆願』。これは自分より優位にあるものに対して、願望を話している形になる。この場合、願望が聞き入れられないと、話し手は困難な状況から抜け出せないことになる。ま� �『警告』という命令法もある。これはそれを聞き入れれば、ある切迫した危険を避けられるかもしれない、という言語である。では次に『要請』とも『嘆願』とも『警告』とも違う、命令法について考えてみる。この特徴は、相手がそれに応じない場合はその人にとって不愉快と考えることをするぞと言う、『威嚇』を背景にするところにある。しかし、ここには微妙な用語上の問題が存在する。例えば、拳銃強盗が銀行員に対して金を渡せと命じ、銀行員がそれに従ったということに問題はないが、拳銃強盗が銀行員に対して命令を下したというのには違和感がある。なぜなら『命令を下す』と言う言葉には命令する側に何らかの権利があること、あるいは権威の存在が暗示されているからである。要するに「命令」とは権威と非常に強 く結びついているもので、命令することは害悪を加える権能を行使することではなく、権威を行使することを意味し、それに従う理由は威嚇を背景とすることもあるが、重要なのは、権威に対する尊敬の念が背景にあるということを、オースティンは主張しているのである。またオースティンは法と道徳の分離も進めた。「法の存在とその良し悪しとは別物である。それが存在するか否かとそれが仮定された基準に合致するか否かとは別々の問題である。」よって自然法は良心を拘束するが、実定法は良心までは拘束しないと考えたのである。

ケルゼンはオースティンと同じく実定法から自然法的な不純物、すなわち政治的要素や社会的要素を排除し、純粋に実定法を記述することをめざした。彼は法と道徳の分離を進め、純粋法学を作り上げた。そこで彼は命令者という概念にかえて、当為命題から構成される法の観念を提出した。そこでは法規範は「…という行為に対しては…という強制を課すべし」という形式に整理される。ケルゼンによると一般的ルールが妥当性を持つのは、法規や裁判所の決定があるからで、また、それを支えているのは法規や裁判管轄、裁判官を任命したりするための適切な手続きを指示する憲法の条項にしたがって、司法的決定や立法が行われたからであるとされる。しかし、その先の「憲法には従うべし」という命題を単純に受け入� ��なければならないのが、ケルゼンの理論の弱点であり、その厳密的な形式主義は、時の政治体制になんら抵抗しない体制迎合的な理論であるという攻撃がついて回った。

その後の法哲学者に、法実証主義の立場にありながら倫理や道徳にまで目を配った、H.L.A.ハートがいる。それはまた次の章で述べる。

 

(6)自然法論の再生

19世紀後半になって法実証主義が台頭してくるにしたがって自然法論は衰退していったが、20世紀に入ってからおこった第2次大戦中のナチス・ドイツの残虐行為が、再び自然法論への関心を呼び覚ました。ナチスの悪法に司法官が追従したのは「法の概念の適切な解明は道徳のいかなる要素にも言及できない」「妥当している法を確認する規律は純粋に形式的なものである」という法実証主義が原因だとする見解が強まり、自然法論の再生を求める潮流が復活した。

ロン・フラー(Lon L.Fuller,1902-1978 )は法という制度の中の目的の要素を強調する。「ある形式的特徴を備えているものすべてが法とみなされるべきではなく、ある基本的な価値を増進するために、相互に規制し合うという人間的目的に最小限役立つようなルールの集合だけが法とみなされるべきである。」フラーの見解によれば、法の概念と道徳性との重なりは、法体系が社会生活を秩序だてて、それを規制していくことに最小限度成功するために満たしていなければならない、ある条件を考察することによってさらにあきらかになる。(中山)これが彼のいう「法の内的道徳」である。フラーはハートと「ハート=フラー論争」と呼ばれる「法と道徳」をテーマにした論争を繰り広げた。それは1958年のハートの論文『実証主義、及び、法と道徳の分離』を皮切りに始まっ た。ハートは自然法論のように「不正な法は法ではない」という狭義の概念では、かえって現行法への批判的な精神を放棄してしまうと考えた。不正と感じられる法であっても、まず、それはそれとして法と認め、その後、その法体系の分析を進め、不正な点を糾弾するという段階を踏まねば、道徳的に正しい法というのは実現できないと考えたのである。それに対してフラーは、一般性、公布、将来効、明瞭性、論理的首尾一貫性、遵守可能性、恒常性という法の根本的要請をあげ、法にはそれが必要だと述べた。その点でナチスは遡及法令や秘密法令を頻繁に活用し、都合が悪ければ自分の制定した法であっても平気で無視した点で、こういった法の内在道徳を決定的に欠いている、という。ハートがナチスの法も法には変わりないと� ��張するのと、真っ向から対立している。(中山・57頁)この論争に対する考察も、次章で詳しく行う。

 19世紀半ばから1960年代まで、法実証主義や価値相対主義的な思考形式が、法哲学界に広く浸透していたため、正義の具体的な内容は語られてこなかった。しかしジョン・ロールズ(John Rawls,1921-)が1971年に『正義論』を出すと、今まで日陰の身であった正義論が再度、脚光を浴びるようになったのである。ロールズの正義論の内容も次章で行う。

  またハートの継承者でありながら、ハートのもっとも強力な批判者であり、またフラーやロールズの影響も多く受けているロナルド・ドウォーキン(Ronald Dworkin,1931-)も注目すべき法理論を抱えている。彼の「法ルールと法原理」の思考形式についても次章で述べよう。

 

  こうして古代ギリシャからの法哲学の思考の変遷を見てきた。法実証主義と自然法論の対立は、ソフィストのノモスとピュシスの対立図式と、それへの批判(ソクラテス、プラトン、アリストテレス)からはじまり、19世紀からの経験主義が思想界に浸透していた環境で生まれた法実証主義において、その溝がかなり深くなっていた。しかし20世紀という「戦争の世紀」と呼ばれる不幸な時代を境に、やはり不正な法に抵抗するための根拠が必要だという認識が生まれ、ハートや、フラー、ロールズ、ドウォーキンといった、自然法と法実証主義という今まで対峙すれども相見えることのなかった両岸をつなぐ橋のような、法概念を持つ哲学者が生まれたのである。学問的で実践的でない法理学を、現実的な地表に下ろした功績を彼ら� �持つ。では次の章で、ハート、ロールズ、ドウォーキンという3名の哲学者の法認識について考察して行くことにする。

 

 

 

1.正義論・法の一般論・法律学的方法論

 

 法哲学の問題を論じる際にあげられる、法に関しての主要な問題領域には、正義論、法の一般理論、法律学的方法論の3点がある。これはすべて同時に並行して語られるわけではもちろんない。各学派や学者によってその注目の仕方は異なるし、切り口も様々だ。ただ「法とはなにか」という抽象的であいまいな問いかけに答えるには、大きく分けて3つの方法がある。「法とはなにか」という問いに対して、できるかぎり単純明解な、そして美しい解答を用意しようという努力は、古代ギリシャ(紀元前5−4世紀)までさかのぼる。はるか昔から、法の定義、法を他と区別して際立たせている法と呼ばれるものに共通するものの解明は行われてきた。

 

(1)正義論

例えば法体系に共通するものとして、そのより高次の概念である正義や道徳の存在を確信し「法とはなにか」という問いを「(在るべき)法とはなにか」と解して、その解答を探求したのが正義論や自然法論である。法と道徳の直接的な関係を、もっとも素直に考えているのがこの立場である。つまり彼らは「在るべき法」を見出すことで実定法の評価基準を設定しようとしている。

 

(2)法の一般理論

これに対して法の一般理論にウェイトを置く法実証主義は、実定法の評価基準の設定よりも、その内在的分析に力を注いだ。そこでは法が道徳的な基準に照らして、良いか・悪いかということは判断せずに、中立的に法の要素を調査していった。この場合「法とはなにか」という問いは「法(の構造やシステム)とはなにか」と捉えられ、それに答えようとしたと言えるだろう。この立場は、なぜ法と道徳を切り離して考えたのか。それは、法とは何かという問題を実定法に限定する事で、より詳しく見るためという意味もあるだろうし、また「道徳性の排除」という思考から第一印象で受けるニヒルな意識から生まれたものかもしれない。しかし、次のように考えると、法の一般理論に注目したがる法実証主義の、感� �性のある繊細な性格を発見する事ができる。つまり道徳を法の必然的要素から恣意的に切り離す事で、道徳の純粋性というものを汚す事を恐れたとでもいえるのだ。よって法実証主義といえども決して道徳と関係がないわけではなく、道徳と法とをつなぐ糸を自ら切り離すことで、つまり自分から人間の理性の限界を設ける事で、逆に、道徳性というものの存在を、手の届かないものながら、いつも感じているとでも言える。

 


彼らはどのようにキングコング1933を作成しました

(3)法律学的方法論

では3つ目のポイント、法律学的方法論について紹介しよう。法律学的方法論とは法の解釈・適用の方法や、法の学問的性質を考察するものである。これは実際に法を扱う立場にある裁判官らが、実定法に対してどのようなスタンスをとるか、判例や解釈学説の法的正当性はどのようにして正当化されるべきか、対立する様々な価値や利益といった議論の余地のあるものを、法的にどのように調整するか等を、様々な方法で探求する問題領域であるが、もちろん法理学的な考察がここでも必要になってくる。法の適用といっても実定法の条文をそのまま挙げるだけでは決着のつかない紛争が、とても多い。そのときに裁判官の判断に意識的にも無意識的にも影響を及ぼすのが、道徳や正義といった知性であろう。

 

このように法とはなにかを考える時には、法にとって道徳が必然的な要素か、そうでないかを考えた前章で行ったような2つの問題領域だけでなく、自然法論、法実証主義、それぞれのスタンスに立ちながら、さらに3種類の斬り方がある。これらの3つの問題領域を、この第3章で、その主要なテーマにしている比重から、正義論=ロールズ、法の一般理論=H.L.A.ハート、法律学的方法論=ドウォーキンと当てはめ、それぞれ考察していくことにしよう。

 

 

1.  ハートの法理論に入る前に

 

(1)「定義づけ」への疑問

 

「…長い間の哲学的難問といったものは、なにも一般理論を展開することによってではなく、そこで人間の言語が用いられる人間の様々の生き方や、いくつもの異なった生活の様式を少しずつ敏感に識別し特徴づけることによって、しばしば解決されるのでは(ないか)」(ハート『法学・哲学論集』序説3頁から引用)

 

 ハートは、まず、「法とはなにか」を定義することに対して疑問を持った。定義することによって現実の法の研究と法理学とが分離し、かえって法の解明を困難にしてきたように思ったのである。(ハート「法理学における定義と学説」23頁・法学哲学論集)法の言葉は、そもそも自然的事実や人間の意思を表明する規範を述べるものではなく、法体系内部において「法的事実」を表示し、社会の中で法の「意味」を伝えるものである。それゆえに「〜とはなにか」という形で定義づけするのは適切ではなく、その法体系なり、その社会で「どのような役割をはたしているか」が重要なのであって、その法がどのような効果を持つのか、が問題なのだとした。そして、法理学の果たす役割は、法に関する普遍的真理の探求とそれへの接近ではなく、法がどのような役割を持ち、どのように遂行されているかを分析的に解明していくことにあると考え主張した。これがハートの法理論の根底に流れるテーマである。

 

(2)ハートの思想的背景

 

 ハートの法理論の内容とその影響を知るために、まず彼の思想上のスタンスを確認しておこう。ハートは19世紀の法理学者ジョン・オースティンや、20世紀初頭のオーストリアの法学者ハンス・ケルゼン、その後に位置付けられる法実証主義の法哲学者である。法と道徳は区別されるべきだという態度、また上述したとおり、法がどうあるべきかではなく、法はこの現実の社会でどのような構造を持っているのかを分析した、という点でも法実証主義の継承者としてのハートの姿がうかがえるだろう。しかし、その内容は多くの部分で、ジョン・オースティンのイギリス伝統的分析法理学とも、ケルゼンの純粋法学とも異なっている。そのことはハートが著作『法の概念』で、まずジョン・オースティンの「命令説」とケルゼンの「当為説」をあげ、それに対する批判という形で理論を進めていることからも分かる。

 ハート以前の法実証主義者が依拠していた認識論的枠組は、「(a)自然的事実の世界と人間の意思の世界との分離、(b)事実の世界や意思の世界を写しとる透明な媒体として言語、および、これら事実や意思の写像、あるいは表象としての知識、(c)科学や学問といった営みは究極的には事実とその表象との対応や一致を目指すものであるとする、普遍的真理への漸進的進歩の観念」、この3つを特徴としていた(中山・33頁)。言い換えれば、(a)自然法と人間の法との区別をつけること、(b)概念を外形化する装置としての言語や知識の分析、(c)科学的な手法−つまりア・プリオリな直観ではなくア・ポステリオリな事実を元にして真理を発見する−を用いて、法とはなにかを見出すこと、の3点がオースティンやケルゼンの寄って立っていた認識論的枠組となる。法実証主義はこれらの枠組を使用し、その中で法を解明するのが中心になっていた。

しかしハートのベースとなっているのは認識論ではない。ここに今までの法実証主義者と異なるハートの特殊性がある。ハートは従来の認識論的枠組の中で法を探求することはせずに、当時、隆盛を誇っていた「言語哲学」との出会いによって、新しい認識論を開いたのである。特にハートが哲学的な影響を受けた人物としてウィトゲンシュタインとJ.L.オースティンの二人があげられる。この二人からの影響については、実際にハート自身が『法学・哲学論集』の序説でそれを述べている。従来の認識論的枠組に言語哲学のエッセンスを加えたもの、それが、新鮮な認識論をつくりあげたハート法理学の根底に流れている。ここではハート理論に決定的な 影響を与えたウィトゲンシュタインについて触れておこう。

 ウィトゲンシュタインは一生のうちにまったく異なる二つの哲学を持ったといわれる。それは前期哲学と後期哲学とに分けられ、前期哲学は1921年に出版された『論理哲学論考』に結晶している。そこにおいてウィトゲンシュタインは、人間の思考は命題によって表現できると考えた。それは文と現象とで一対一の写像関係にあるという。しかし彼は、その考えを自ら破棄し、新たな哲学を考え出した。それが後期ウィトゲンシュタイン哲学と呼ばれるもので、ハートは特にこの哲学の影響を受けている。そこではいったいどのような思考の転向があったのだろうか。

ウィトゲンシュタインの死後、1956年に出版された『哲学探究』では『論理哲学論考』の言語観は否定され、より実際的な言葉の使用の場面に目がむけられる。言葉はさまざまな状況でいろいろなやり方でつかわれており、『論理哲学論考』で想定したような統一的な言語など存在しないと考えられるようになった。なぜなら言葉のやり取りは一種のゲームのようなものであって、言葉の用法やその意味はその中で決まってくるからである。それを「言語ゲーム」という。科学者、詩人、神学者などはそれぞれことなった言語ゲームをおこなっている。科学者は科学者同士、詩人は詩人同士、神学者は神学者仲間と、話す言葉とその意味が変化してくる。例えば「頭」という言葉ひとつでも、ある文脈では身体的な部位の一� ��分を指し示すし、ある状況では集団のリーダーを示す言葉にもなろう。したがって、ひとつの文の意味は、その文があらわれる文脈、そしてその文がつかわれている言語ゲームのルールから理解されなければならない。ウィトゲンシュタインによれば、哲学とは言葉の混乱によって生まれた問題を解決する作業であり、そのような問題の解決の鍵は、日常の言葉の分析であり、言葉の適切な使用なのである。

このウィトゲンシュタインの哲学は、ハートに具体的にどのような影響を与えているのか。まず、それは『法の概念』の主要理論である「社会的ルールとしての法」と「内的視点・外的視点」にその形跡が見える。この概念は、社会的ルールには二つの側面があるとする。それは外から見たルールと、ルールが適用される人間たちの内面的な視点、である。例をあげれば、赤信号を見たとき、それが「止まれ」の合図だと知っている人には、それは従うべき行為の規準になる。しかし、それを知らない人にとっては「信号が赤になったら車が止まる」という事実のみが観察できるだけで、それだけでは「赤になれば止まらなければならない」という赤信号で停止する人々が皆持っている意思を認識することはできない。� �れが内的視点と外的視点の例である。この例だけでもウィトゲンシュタインの影響が感じられはしないだろうか。つまり共有された社会(言語ゲーム、生活形式を共有する社会で)で規準(基準)としてある行為がされる・されないのであれば、その様子を捉える視座を内的視点と呼ぶ。逆に社会(言語ゲーム、生活形式)を共有せずに、その人々の言明や行動をなにかのしるし(徴候)であるかのように記述するような視座を外的視点と呼ぶ。これは言いかえれば、法の役割を認識するためには、言語ゲームや生活形式の共有こそが社会的実践として法を理解するための前提条件である、ということである。法の言語と実践のあり方を共有することなしに、法的ルールの理解は不可能である。この「内的視点・外的視点」の考え方をハー トはウィトゲンシュタインの哲学から引き出したのである。ではハートの思想的背景を踏まえたうえで、ハートの法理論の総体を示すものとして1961年に出版された『法の概念(The Concept of Law)』の内容の考察に進んでいくことにしよう。

 

2.『法の概念』の要約   

 

(1) 法的概念の明確化のための分析枠組

 

  ハートは第一次的ルールと第二次的ルールという、法を二分割したことにまず特徴がある。それぞれ第一次的ルールは責務のルール、義務を課すルール、第二次的ルールは権能付与のルール、裁判のルール・変更のルール・承認のルールに対応する。そしてこの二つのルール概念に加えて、内的視点・外的視点という、法が持つ人々の行動への二種類の影響力があることを考えた。内的視点は、それまでの法理論から見逃されていたことであり、このことによって法の役割がより複雑に捉えることが可能になったといえよう。法の概念を考察するための、この第一次的ルール・第二次的ルールという概念と、内的視点・外的視点という概念、2種類の概念をこれから紹介していく。

 

(2)内的視点・外的視点

 

ハート法理学を特徴付ける1つの理論が内的視点・外的視点である。内的視点・外的視点の思考形式については、既にウィトゲンシュタインの影響のセクションで述べた。この内的視点・外的視点という観点は、これのみ単一で語られるべきものではない。第一次的ルールと第二次的ルールを内的側面から見るとき、また確実な核心と疑わしい半影という「法の開かれた構造」を考える時に使われる用語だからである。よって、この理論は他の理論を考察する時に、考察していくことにする。

 

(3)第一次的ルールと第二次的ルール

 

 法の諸要素を考える際に、立法機関、裁判所、公機関をまったく持たない原初的な社会を想定しよう。そしてこのような社会構造を責務の第一次ルールからなるものと呼ぶ。社会が第一次ルールのみで存続していく場合、条件が必要である。一つは暴力、盗みを制限するルール、責務のルールが必要である。もう一つはそのルールを拒否するものが少数派であること。そうでなければ、拒否する人々は社会的圧力を感じないだろうし、感じなかったら社会が存続しないからである。責務のルールを考える時には内的視点・外的視点が使われる。外的視点とは自分はその現象に含まれないで、それを外から観察する立場であり、内的視点とは、その当事者の視点であった。例えば、しばらく信号と交通の様子を観察して� �た人は、信号が赤になると交通が止まるという「しるし」を見つけることができる。外的視点からでは赤信号は交通が止まるしるしであり、また止まる可能性があるということができるだけである。しかし、その場面を内的視点から見てみると、今度は赤信号を他の人々が止まるであろうしるしと受け取るだけでなく、自らも止まるための理由と見ることが出来るのである。このように外的視点からだけでは、他人がそうするであろう蓋然性しか見出せない。責務が存在するのは、内的視点から見た場合、つまりルールの内的側面を考慮した場合なのである。したがって責務が存在しうるのは内的視点から見てそれが妥当性をもつときなのである。しかし、こういった社会構造で存続していける社会は小規模で安定した社会に限られるであ ろう。それ以外の社会では様々な補完が必要となる。

 補完しなければならない点は何か。まず、ルールに対しての疑問が生じたときにそれを参照するあてがないことがあげられる。この第一の欠陥を「不確定性」と呼ぶ。第二の欠陥は「ルールの静的性質」である。古い法を排除したり新しい法を導入したりすることで変化する社会状況に法を適応させるための手段がないのである。第三の欠陥は、社会的圧力をかける機関が明白でないことから生じる「非効率性」である。これらの主要な三つの欠陥についてはそれぞれ第一次ルールとは異なった種類の第二次的ルールで補うことで矯正されるとハートは考えた。

 「不確定性」を矯正するものは「承認のルール」と呼ばれるものの導入である。これは文書や碑文を権威あるものとして、すなわちルールの存在に関する疑いを処理するのに最適な方法として参照することを認めるものである。ある特定のものに、それを承認する「権威のしるし」を与えることによってばらばらだった法体系が統一化されることになる。このルールの導入によって法体系の観念をも導入される。

第二の欠陥である「静的な性質」に関しては、「変更のルール」を導入する。法の制定、廃止という観念が理解されうるのは威嚇を背景とする一般的命令からではなく、このような変更のルールからである。そして変更のルールは私人への権能付与のルールとも結びつく。個人が第一次ルールの下で持っていた最初の地位を自ら変更できるような権能を「変更のルール」の導入によって持つと考えれば、契約の締結、財産権の移転を個人の制限的立法権能の行使としてみることができる。

 第三の欠陥である「非効率性」の克服には、第一次ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を持つ機関が必要となり、そのために「裁判のルール」を導入する。裁判のルールは義務を課すのではなく司法的権能を与えるものである。裁判のルールによって与えられた司法権能の役割は、第一次的ルールの違反の事実についての権威的決定のみに限られない。裁判所という機関に社会的圧力の集中化をはかることによって私人による自力救済を禁じ、その代わりに他の公機関に刑罰の適用を命じる排他的権能を裁判官に与えたのである。これらの第二次的ルールが体系の集中化された公的「制裁」を提供するのである。

 この責務の第一次的ルールと、承認・変更・裁判の第二次的ルールからなる構造は、法体系の核心をつかむだけでなく、その分析のための強力な道具になる。ハートはこの法体系の概念を2つのルールに分けて分類することで、法の分析をより具体的に行う事を可能にした。

 

3.道徳を範疇に入れた法実証主義

 

(1)法と正義と道徳

 ハートはまず正義と道徳の違いを述べ、そして道徳と法の違いと挙げていった。まず正義と道徳はどう違うのかというと以下のように考えた。例えば、個人的行動のレベルで区別をすると、自分の子供を虐待したものに対して、道徳的に「悪い」ことをしたとは言えるが、「正当でない」と批判することは奇妙である。「正当でない」という言葉が当てはまるのは、自分の子供の中から気まぐれに一人を選び、他の子供よりも厳しい罰を与える場合とか、その子供がしたのではない悪事を理由に調べもしないで罰する、などの場合である。法に対する批判に目を転じれば、子供に教育を受けさせる義務を親に課している法は「善い」といえ、政府批判を禁じる法は「悪い」と言える。逆に税の負担配分についての法に� �「正当な」が当てはまるだろうし、黒人に公共機関の利用を禁じる法は「正当でない」と表現できる。したがって正当とか正当でないとかいうことは善い悪いよりももっと道徳上の批判の特殊な部分なのだと、ハートは述べている。そのうえで正義の観念に含まれる一般原則として「平等であれ」という原則があるとした。これは、現実的には人々は様々な不平等の立場にあるが、負担や利益が配分される際には、不平等は是正されるのが望ましく、この均衡や調和を維持するのが正義だと考えられている、と彼は述べた。

 またこの他にも正義の原則としては「権利侵害の補償」がある。権利侵害の補償について正・不正を見るとき二つの場合がある。一つはその法が不公平な特権とか免除を定める場合である。つまり白人は黒人に暴行しても責任を負わないというと不公正だということである。もう一つは法が道徳上補償の必要な権利侵害に対し何の救済措置も持たない場合である。このような法が不正と見られるのは補償を公正に配分しなかったからではなく、誰にも認めなかったからであろう。肉体的危害に対して損害賠償を得られないような場合、それは露骨に表れる。

 補償の正・不正と「類似の事例は同様に取り扱うべき」の原則からは法以前に人々が有害な行動を自制するような道徳的確信が見られる。これらの原則によって自然の不平等性を相殺する、人工的平等が個人間に創造される。道徳を無視し、他人の権利を侵害するものは平等秩序を乱すものと考えられ、出来るかぎり、侵害者によって原状回復されるよう求めるものが正義である。こうしてみると正義の要請を体現している補償の存在自体が、「類似―」の原則を承認していることになる。つまり同等な被害者と加害者の原状回復のために補償が存在しているからである。しかし他方で個人を平等の地位に置かないという見解もあり、それは不平等な秩序ではあるが、その法なりに異なる事例を別々に取り扱っている� �ならば、その限りでその法は正当であるといえる。

 

(2)自然法の最小限の内容

 

「人間が共同していかに生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を 立てるためには、一般的に言って人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。この点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非常に明白な一般原則―まさに自明の真理―を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いかなる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールのあることがわかる。」(ハート・210頁から引用)

 

 ハートは道徳の観念からではなく、「生存」を前提としての、法が基本にすべき最小限の内容を考えた。それが以下の5つの点である。(ハート・212頁)

(@)人間の傷つきやすさ

 社会生活にとって最も重要なルールは、暴力の行使を制限するものである。しかしこれは自明の真理ではあるが、必然的真理ではない。なぜなら人が攻撃しやすく、また傷つきやすいものという前提が必要だからである。もし人間に攻撃可能な器官がなかったり、防御器官があまりに堅固だったりすれば、そのようなルールは必要ない。

(A)おおよその平等性

 人間は互いに能力に差があるのは事実だが、そこまで極端な差はなく、能力の優越により、個人が、協力なしに他人を長期間支配し服従させることができないのも事実である。このおおよその平等性は人間に相互的自制と妥協を求めるのだが、それに反する人間がいることも矛盾しないし、その存在は、ルールの形態が道徳的統制から法的統制へ進む理由にもなる。しかし国家間では事情は異なる。強さ傷つきやすさの面で巨大な不均衡がある。この不平等が国内法と国際法が違った性格を持つ理由なのである。

(B)限られた利他主義

 人間は他人のことを一切考えない悪魔ではないし、自分のことを考えない天使でもない。その中間であるから、相互自制の体制が必要とされ、また可能なのである。統制がなくなったとき、その体制は崩壊することもある。

(C)限られた資源

 人間が何もしなくても暮らせるほど、資源は無尽蔵には存在しない。労働によって栽培したり獲得したり、建設することが必要となる。その労働によって生産された財産を他人に奪われていては生活が成り立たない。従って、所有者以外はその財産を利用できないという相互の最小限の自制が生活のために必要になる。

(D)限られた理解力と意思の強さ

 意思の強さとは目前の利益を我慢する意思の強さのことである。ルールによって相互に利益を確保していることは明白だが、その動機は様々である。相互間の自制による利益は大変明確なため、それを守る人の方が反抗する人よりも多い。しかし時には自分の利益を選びたいこともある。そのときにその行為に対して罰がなければ、ルールは機能しない。ここで注意するのはその制裁がルールを順守する動機なわけではないことだ。それは保障として必要なのである。

  このように5つの自明の真理を挙げた。これがなくては社会は維持できないというものである。人・所有・約束に対する最小限の保護と制裁規定、これは法実証主義のテーゼへの反論である。

  まとめよう。ハートは習慣的な命令と服従という単なる事実としての法の概念を提出したオースティンの考えを拒否した。そこで代わりに提出したのが、承認のルールである。法が法であるということは、特定の人々に立法の権利を与える承認のルールを社会が全体として受け入れているという事実にある。つまり法の概念は、ある特定の集団が社会に下す命令にあるのではなく、法を作り出す権能をある集団に付与する一つのルールを社会が認めているという事実にこそあるのだ。そしてその中で作られる法とは第一次的ルール(責務のルール)と第二次的ルール(裁判・変更・承認のルール)とに定義できる。そして、その社会が法を認めるのは自然法の最小限の内容が含まれていることが自然であると述べた。

 

第3節  ジョン・ロ−ルズ

 

1.正義論

 


里内の任意の面白いものは何ですか

(1)ロールズ正義論の背景

  ロールズもまた、それまで信じられてきた基本的諸価値が根底から揺らいだ戦後に、正義論の構想を行っていた。ベトナム戦争は正当化しがたい戦争であり、アメリカの自信も揺らいでいた。公民権運動からはじまる様々な市民権運動は社会の変化を、ありありと表現していた。そして、その差別是正のために設けられた「アファーマティブ・アクション」(公的資金による住環境の整備、就職先や就学機会の提供・凱旋)の「平等のための不平等」という問題、またそこから噴出した「逆差別」の問題など正義とはなんなのかが実用的に求められるような時代であった。(中山・104頁)そこでロールズは正義論を出版し、それは瞬く間に広まった。乾いた土に雨水が染み入るように、ロールズの正義論は価値相対主義に翻弄されていた人々のひとつの指針になったのである。

 

(2)正義論の内容

  そういった時代にロールズは正義の判断基準を求めた。彼はそのためにまず原初状態という仮定を考えた。原初状態とは、自分がなにものか分からない、無知のヴェールで覆われている状態のことを言う。「自分がなにものか分からない」とは、自分の名前がわからない、年齢が分からない、どんな経験をしてきたのか分からない、どこに住んでいるのか分からない、という記憶喪失のような状態にあるだけでなく、自分が男か女か、黒人か白人か人種もわからず、経済的に裕福な立場にあるのか貧乏な立場にあるのか、障害を持っているのか健康体なのか、能力の程度や(天才的な能力の持ち主か平凡な能力か)、またいつの時代に存在しているのか(中世封建社会か、近代資本主義社会か)、さらに信仰する宗教、善の概念、心理 的傾向すらもわからないという、つまり「なにも分からない」状態のことを言う。 

ロールズはこのような原初状態を仮定する。そして、ここで採用されるだろうルールを「マキシミンルール」という。マキシミンルールとは、想定しうる最悪の結果に着目して、選択肢の順位付けを行うことを命ずる。つまりある選択肢の最悪の結果が、それ以外の選択肢にある最悪の結果と比較してましな場合にはその選択肢を採用するのである。分かりやすい例を上げよう。ここにおいしそうなホールタイプのチョコレートケーキがあるとする。そしてあなたにナイフが渡された。あなたがそのケーキを切り分けるのである。あなたはどう切ろうとするだろうか。チョコレートケーキの大好きなあなたは自分の分は大きく切り分けたいと思うだろう。しかも切り分けるのは自分だ。自分の思うように切れそうである� �しかし、そうはうまくいかない。あなたは悲しいことに、切り分けたあと、その分けられたケーキを選べないのだ。最後に残されたケーキを食べることになっているのである。そういった状況の時、あなたはどうケーキを切るだろうか。きっと均等に切るだろう。なぜなら大きさに大小あれば、きっと残るのは一番小さいケーキだろうからである。自分が人より利益を多く取れないのなら、せめて他人と同量の利益を欲するはずだと、ロールズはこのように考えたのである。自分がもし、一番恵まれない状況にある人物だとしたら、と考えたときに採用されるのは、「マキシミンルール」であるとロールズは考えた。

【第一原理】

「各人はすべての人々に対する同様な自由のシステムと両立する、もっとも広範で全体的な平等の基本的自由のシステムに対する平等な権利を有する。(自由の平等原理)」

【第二原理】

「種々の経済的社会的不平等は、以下の両方を満たすように設定されなければならない。(a)後の世代のための正義に適った貯蓄の原理と矛盾しない限度で、最も恵まれないものたちが最大の利益を受けるように(格差原理)、そして(b)公正な機会の平等を満たす条件下ですべての人に開かれている職務と地位に伴うかたちでしかないこと。(公正な機会均等原理)」

 この正義の二原理とは、自分がどのような地位にいるか、人種、性別、資産、能力等の情報、また自分が持つ善の概念や心理的傾向すら知らない無知のヴェールの中で、選択されるであろうものである。彼は、自分がもし一番恵まれない状況にある人物だとしたら、と考えたときに採用されるのは、基本的人権の確保と公正な機会均等原理、格差原理であるとするのだ。このミニマムスタンダードに辿りつくまでは原初状態から、いくつかのプロセスを経て、人々の合意を積み重ねていくという作業が必要となる。この「合意を積み重ねていく」という、ロールズのいうカント的構成主義が直観主義や功利主義との大きな違いとなり、この形式を踏むがゆえに「公正としての正義」が「万民の法」としてリベラルな社� �以外にも拡張できる可能性を持つことになるのである。

 

(3)万民の法

 さらにロールズはこの正義の原理を万民の法に拡張しようと試みる。正義論では射程は民主主義国家のみであったが、万民の法では、それを民主主義以外の社会にも広げようとしている。万民の法とは、「国際法及び国際慣行の諸原理や諸規範にかかわる正しさと正義についての政治的構想」である。拡張されるべき要素は(@)基本的人権(A)自由の優先性(B)機会の均等、の3点である。万民の法の目的は、どの社会においても人権が尊重されることである。ロールズはリベラルなスタンスにある限り、むやみに異なる社会を批判することは、正しくないが、と前置きしつつ、その寛容の限界を設定している。秩序ある体制の三つの必要条件とは「平和の諸原理を尊重し、膨張主義に� �らないこと。」「自らの人民の判断において正当性の本質と合致する法体系を持つこと」「基本的人権を尊ぶこと」としている。

  正義論には批判も多数あった。しかし人権の尊重など「真理」や「理性」という高みからしか理由付けできなかったものを、無知のヴェールという仮定概念を用いて、きわめて合理的に説明してのけた功績は過小評価できない。法哲学は実用性のない学問だという批判をこの一冊で、見事にはねのけたのである。自由と平等の原理は黒人と白人の別学廃止という初期公民権運動に影響を与えたことは間違いないし、格差原理はアファーマティブ アクションの正当化の根拠にもなる。アファーマティブ アクションから生まれた逆差別の問題には公正な機会均等の原理が対応可能である。彼の提出した原理は社会の制度の判断基準として見事に実用化されているのである。

 

 

1. ドウォーキンの思想的背景

 

  ドウォーキンはハートの継承者と言われるにふさわしい言語哲学的に洗練された分析的手法と、フラーの法の内在的道徳という理論、そしてロールズの道徳哲学の影響があるといわれている。(中山・78頁)法実証主義者が法と道徳を区別したのに対して、ドウォーキンは逆に道徳を法制度内在的に位置付けようと考える。それが「法原理」といわれる理論である。

 

2. 司法裁量論

 

 ドウォーキンは司法裁量論に法の概念を見出そうとした。彼は法をルール体系と捉える事から間違いは始まっているという。彼は具体的に判例における推論を追いながら、法的判断において重要な働きをするのが、ハートが言うような法ルールではなく、「法原理」だという。彼は司法裁量の法について三つの観念、慣例主義とプラグマティズム法学と純一性としての法をあげる。(ドウォーキン『法の帝国』160頁)慣例主義は先例を重要視し、過去の政治的決定に従って権力は行使されるべきと、人々が要求する理由を、予測可能性と、手続き上の公正に尽きる事を主張する。プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であり、もっとも創造的な法観念を持つ。裁判官は過去との判例の整合性よりも共同体の将来にとって利益になるものを選択すべきであると答える。そして純一性である。純一性は慣例主義とは異なり、法の拘束は単に予測可能性や手続き上の公正としての利益をもたらすだけでなく、むしろ市民の間に一種の平等を生み出す事によって社会の利益になるのだという。そしてこの平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使する時、この権力行使の道徳的正当化をさらに促進する事になる。そして 純一性としての法という概念こそが、法の役割を良くあらわしていると結論づける。ハード・ケイスの場合に、裁判官がどういった方法で判決を出すのか、ドウォーキンはこのように考える。裁判官は法の「開かれた構造」、ハートの言う「疑わしい半影」部分においてプラグマティズム法学が考えるような将来の利益になるような政策的裁量は行わない。なんとか法制度内在的に見出せる「原理」に依拠しながら、正しい解答を追及するのだという。

  また、ドウォーキンは『法の帝国』の後半でハーキュリーズという「純一性としての法を受け入れ、超人的な知的能力と忍耐力を兼ね備えた(ドウォーキン・373頁引用)」想像上の裁判官を登場させる。彼は様々なハード・ケイスに立ち向かい、具体的な判例を挙げながらその各々で考慮されるべき原理を探求して行く。原理には先例拘束性という原理や経済的功利主義など様々あるが、ここで採用されるであろう原理は正義と公正という政治道徳を構成する二つの価値に依拠するだろうと、ドウォーキンは考える。(ドウォーキン・366頁)ハーキュリーズの答えは「……抽象的正義の問題としてどれが一番優れているかという点に関する彼の信念だけでなく、彼の仲間が抱く道徳的信念と同じ信念をそのメンバーたちが抱いているよ うな共同体において、政治的公正の問題としてはどの原理に従うべきかという点に関する彼の信念にも依存する。」つまり一般道徳に支えられた解釈が優れていると考えられるのである。

 このようにドウォーキンは「これこれが原理である」と固定した正解があるのではないが、それぞれの場合に応じて、よりよい正解がどこかにあると主張した。相対的な原理と言うものがあり、それは裁判官がケース・バイ・ケースでいくつかの原理の中から最も適切だと思う原理を採用する。その選択作業の中では裁判官の道徳的思考が行われていると彼は考えた。法と道徳を分離しているが、ハード・ケイスのような法の開かれた構造の領域では裁判官の創造的裁量が働く余地があると、ハートは主張したが、ドウォーキンはそれを批判している。疑わしい半影の領域で働くのは創造的な裁量ではなく、幾つかの競合する原理の中からよりよい原理を選択しようという裁判官の純一性に基づく道徳意識である。こ� �ようにハートの法と道徳を分離する姿勢に対して、真っ向から批判したのが、彼の後継者ドウォーキンであった。ではどういった原理を選択するのが好ましいのか。ドウォーキンは功利主義を批判し、個人一人一人を尊重するような原理を選択することが善いと考えている。重視されるべき原理は社会全体の利益の向上ではなく、一人一人への平等な尊重と配慮である、と。

 裁判官の裁量には原理が含まれその原理は一般道徳にある、とドウォーキンは考えるが、それに対して批判もある。ドウォーキンは法を法律家の観点でしか見ていない。確かに法に最も多く接しているのは法律家であるが、法の役割というのは法体系に所属している人全てに及ぶ。法律家ではない人々にとっての法についての考察が足りない、というのが彼への批判である。

 

  以上、ハート、ロールズ、ドウォーキンとそれぞれ異なった観点から法を捉えようとしている三人の法哲学者を紹介した。彼らはスタンスは違っても、重なり合う部分は多い。それはどの法哲学者も内的視点を重要視しているということだ。ハートは法が法としてあるためには承認のルールを社会全体が妥当として認めていることをあげているし、ロールズも原初状態という空想的な仮定を用いて、社会の内側から法を考えたといえる。その法が良い法なのか、それは内的視点に属する思考形式である。ドウォーキンにおいては司法裁量の領域において裁判官がどういった内的視点で法を捉え、原理を見出しているかが主要なテーマであった。つまり法の一般理論にとっても、正義論にとっても、法律学的方法論にとっても「内的視点 」が共通するテーマである。しかし、それは本当に内的視点の全要素を網羅しているのか。彼らは真に内的視点からの十分な法の考察を行っているのだろうか。時代は内的視点に焦点を定める傾向にある。私もその流れにのり、内的視点を考察していく。

 

 

第1節  法に共通するもの

 

1. 自然法論と法実証主義

 

一見、自然法論は人間の内面に(ルソーの言葉で言うなら胸中に)共通する道徳的概念を探求しているため、法の内部を重視しているように感じる。道徳的直観という言葉は、ルールという「枠組み」ではなく、そのルールの上位概念である理性やら無分別やらの発芽として、脳の前頭葉において何らかの共通意識の中から、浮かび上がってくるものという印象を受ける。偶然嗅いだマドレーヌの香りに、幼少期の記憶がリアルに呼び覚ままされることがあるように、それは忘れさられているから、また表層意識まで上がってこないから気がつかないだけで、人間に共通する記憶として道徳的共通認識があるに違いないというのが自然法論である、と認識されている。それに対して法実証主義はそういう感覚を視界の外におい� ��いるため、法を客観的に外部から観察しているように見えるだろう。

自然法論者は、こういう思考形式を持っていると考えると、彼らはより深い真理を探しているため、法実証主義者とは違って、法を内面から考察しようとしているように見えるだろう。実際、自然法論者と法実証主義者が互いを批判しあう時には、前者は後者に対して、「もっと人間の内面を見なきゃだめだ、正しい行為の真の原則という真理を探究しなければ、意味が無いのだ!そんな表面的なことを調べていたってより良い法には到達しない!」と言い、後者は前者に対して、「そんな夢みたいな事ばかり言って…内面の共通性がいつまでたっても見つからないのだから外的な共通点を見つけたほうがいいじゃないか」と言い返す。これではいつまでたっても埒があかない。議論しようにも、前提とする思考とが違うから� ��共通ルールを探す対象とするものが違う)お互いの主張を辛抱強く聞いたとしても、なかなか同じ土俵では議論ができない。現在ではハート、ロールズ、ドウォーキンといった自然法論と法実証主義の間の子とでもいえるバランスの取れた法理論が出てきてはいるが、その中庸的な思想をしばらく考察しても、私の消化不良は治らなかった。まだ納得できないのである。実はそれは自然法論と法実証主義という言葉から受ける印象と、その内実の差にあったのである。それを以下で紹介しよう。

 

2. 目的論的自然観

 

どんな事物でも目的にしたがって前進する際には規則性が見られるし、それは一般的に定式化できる。この点で目的論的自然観は近代思想と重なる。相違点は目的論的観点では規則的に起こる出来事が単に規則的に起こるとは考えられず、「起こるのか、起こるべきなのか(存在と当為)」という問題が区別されないところにある。目的に従って前進していれば、それは善と評価される。したがって発展法則はその事物がどのように規則的に行動あるいは変化すべきか、現にするかの双方を示さねばならないと言うことになる。

 つまり既述の例でいえば、「生き残る」という目的にしたがって法を作ればそれは善なのである。再度確認するが、私はこの立場をとらない。なぜ、目的論的自然観に反対するのか、その理由は後に述べるとして、もうしばらく目的論的自然観について考察することにしよう。

「事物はそれ自身の中に実現すべき高いレベルを含んでいる」という目的論的自然観、この考え方は生物の場合においては特に奇妙に感じられないかもしれない。例えば、どんぐりが数年後に樫の木に成長したとき、それは十分な栄養が供給されて最適の状態(樫の木にまで成長した事)にあると認められる。目的論では人間もそれ以外の動植物も同様に捉え、人間がそれを望んだからそうなるのではなく「それが人間の自然の目的であるから」それを望むのである、と考える。確かに納得できないこともないが、それでもなお根本的な欠点が残っている。それは目的を持ちそれを実現しようとする人間と、そうではない他の生物とを区別しないことにある。ここでいう「目的」とは生存するという本能的目的を指すのではな� ��。より善い社会にしたいという目的である。より善い社会とは障害者も健常者と同じように暮らせるような福祉社会であったり、自由な商取引が行える関税の低い社会であったり、自分の手で稼いだ財産は全て自分のものにできるという税金のかからない社会であったり、環境を大事にして環境を汚すような産業を規制する社会であったりする。それは様々であるが、つまり現在の状況と変わらず生きていくのではなく、もっと幸せになれるように社会を再構成していくという人間独特の目的のことである。このように考えると人間の目的とは現状維持にはないということが分かるだろう。もし自分の社会が暮らしやすく、これなら現状維持でもいいと思ったとしても、世界のどこかの社会が改善の余地があるならば、暮らしやすい社会� �住んでいる人間は改善の余地のある社会をより良くするために介入することもある。どの方向にベクトルが働くかはその社会の状況によるが、常にさらに善い社会を目指していくのが人間独自の性質であり、それは他の動植物には見られない傾向である。よって私は自然と人間を混同している目的論的自然観を支持しないのである。

3. ハート「自然法の最小限の内容」

 

  再び、ハートに登場してもらおう。ハートは目的論的自然観を否定しながらも、人間には「生きたい」という共通する願望があると考えた。(ハート・210頁)ハートはまず「生存、人は必ずそれを欲するものだという考えは形而上学的過ぎるとして放棄できる。」と述べる。「そのかわりに人が生きたいと願うことは単なる偶然の事実であって、そうではない人もいるかもしれない」とやはり目的論的自然観に反対するスタンスをとると見せかけるが、彼は「しかし」と続ける。「たとえこのように常識的に考えても、生存ということは人間行為との関係においても人間行為に関するわれわれの思考においてもやはり特別の地位を占めるのであり、その地位は正統的な自然法理論において生存が重要でしかも必要であるとされていることと相応するのである。」と述べる。そして人間が共同していかに生きるべきかについて、考えるためには一般的に言って人間の目的は生き� �事であると仮定しなければならない。そしてここから人間社会における一般原則を考えると、いかなる社会組織でももたねばならない一定の原則が見えてくる、と導き出す。それが自然法の最小限の内容といえる、自明の真理、生存のための最低限のルールである、と彼は考えた。そして(@)人間の傷つきやすさ、(A)おおよその平等性、(B)限られた利他主義、(C)限られた資源、(D)限られた理解力と意思の強さ、と人間の共同生活の維持に必要である五つのルールをあげていく。この考え方が自然法論とどのように違うのかといえば、自然法論の場合、例えばこういったルールを先験的に認識できると考える。しかしハートはそうは言わない。人間が共同生活を営むとしたら、と考えたら、ある要素が浮かび上がってくるし、そ� ��はその法体系が存在する時代や環境によって、様々な要素があるが、それをふるいにかけていけば、自然とこれら五つの要素が残るだろうと言っているのである。

 

4. ロールズ「正義の二原理」

 

 次は、ロールズに登場してもらおう。ロールズは人間社会に必要な法的要素を考える際に、無知のヴェールに覆われた原初状態というものを設定し、そこから合意を積み重ねられて出てくる最低限のルール「マキシミンルール」があるとした。 彼はそれを「正義の二原理」と呼んだ。第1原理は「自由の優先性」についての原理である。各人は他人の自由と協調できる範囲で、できるだけ広範囲におよぶ基本的自由に対する、平等の権利を持つ、というのが平等な自由原理である第1原理である。第2原理は「格差原理」と「機会の公正な平等原理」とからなる。

 この原理を様々な法体系に当てはめるとき(彼は「万民の法」と言い表している)、第1原理の自由と平等原理が主となると、彼は言う。つまり基本的人権のことである。ロールズの上げている基本的人権は次の通りである。まず根本原理として、生存権、自由の権利、財産権、温情主義ではない自然的正義・法の支配、をあげる。また基本的諸原理として、良心の自由・結社の自由、移住の権利を追加する。さらに人権には三つの役割があるという。1つは、体制の正当性と法秩序の妥当性の必要条件としての人権。二つ目は、人権がそこに存在すれば、他の人民による正当化された強制介入や、経済制裁や軍事力による介入を排除する十分条件になる。三つ目は人権が人民の多元主義に制限を設けることで ある。これらの原理はハートの言う「自明の真理」と重なる部分が多いだろう。

 

5. ドウォーキン『原理』

 

 その点 ドウォーキンは共通ルールを提示することはしない。それぞれの場合に、正しい解答があるはずだと考え、それは相対的なものだという。単純化しなくてもそれでいいと考えたのがドウォーキンである。彼は目的論的自然論は取らない。ハーキュリーズと言う理想的な裁判官像を仮定し、ハーキュリーズが出すであろう判決は提出しているが、それが唯一の解答だとは言っていない。それぞれの競合する原理を、裁判官は純一性と言うスタンスを根本に置きながら判断していくのである。その時、一つだけドウォーキンがあげている正しい解答がある。それは集団主義ではなく個人主義と言う解答だ。功利主義の原理は、彼は避けたいと思っている。その代わりに選択されるべきなのは、一人一人を平等に尊� ��し、配慮していくという原理であると、彼は考えている。

 


 以上、二十世紀の法哲学者三名の法と道徳の関係について、まとめた。ハートは法実証主義、ロールズは正義論、そしてドウォーキンは法実証主義の持つ分析的傾向をもちながら、正義論のもつ「いかに法はあるべきか、いかに人は生きるべきか」という問題をも視野に入れている。つまりどの法哲学者も法の内在的道徳と言うものを考慮に入れて法の概念を組みたてている。ではその内在的道徳はどう認識されるものなのか。それについて考えていく。

 

1.   内的視点の欠如

 

(1)消化不良の原因は

 

 自然法論にしても法実証主義にしても、どちらのスタンスを考察して見ても、私にとっては、どちらの椅子も座りごこちが悪かった。その原因はなにかと考えてみたところ、1つの要因が浮かび上がってきた。それは「法の妥当性」に関する問題である。法の妥当性、なぜそれが妥当とされるのか、についての問題は、自然法論であっても法実証主義であっても取り沙汰されてきてはいた。しかし、どちらの側も、見落としていた点がある。それはハートの提出した「内的視点」に関係してくる。ハートの内的視点については、彼の弟子であるニール・マコーミックも「不十分である」と批判している。(ニール・マコーミック『ハート法理学の全体像』120頁)なにが不充分かというと内的視点と言う態度には「認知的要素」と「意思的要素」が含まれているというのだ。法体系に属さない観察者としての外的視点と、法体系に所属しその法がどういう意味を持つのかを認識してそれを守っている当事者としての内的視点とを、ハートは区別したがそれでは足りないわけである。「赤信号では止まらなければならない」と知っているのが認知的要素であり、「赤信号で止まらないと事故が起こる可能性があるから止まろう」という意思的要素。この2つにまた区別できるのだと、言う。私が注目したいのはこの後者の意思的要素についてである。そして、これは法実証主義にも自然法論にも、はたまたハートの法理学にもロールズの正義論にも欠けていた一面なのである。

 

(2)内的視点の意思的要素が欠けていた

 法実証主義にも自然法論に欠けていた意思的要素とは何をしめすのか。それはそれらの持つトップダウン的な性質に原因があると言えよう。中世のトマス・アキナスの神の法にしろ、カントの実践理性にしろ、また目的論的自然法論の形式を移植し自明の真理を提出したハートにしろ、原初状態という新たな視点からミニマムルールを考えたロールズにしろ、同じ欠陥を持っている。彼らは法の内部、内在的道徳観念を見ているようだが、そのとおり、観察しかしていないのである。観察、つまり、外的視点である。彼らは法が内在的に抱える要素を外的視点から認識しようとしていたのである。かろうじてハートは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの哲学を自分の法理学に移植していたた め、内的視点という概念に気付いたが、その視点を自身の「自然法の最小限の内容」に適用するまでには至らなかった。法実証主義だけでなく、自然法論であっても、法の内在的要素を外的視点で捉えようとしていたがために、法の定義づけに傾倒してしまい、法の持つ役割というものをおろそかにしてきた。ハートは彼以前の法実証主義には内的視点が欠けているとして、それを否定したが、内的視点が欠けていたのは、自然法論も同じだったのである。自然法論者は、先験的な真理というものを求めるあまり、経験的な分野である内的視点やその意思的要素というものを疎外してきてしまったのである。

 

2. 法の妥当性

 

(1)共通ルールに対する意思

 

ここで考えたいのは「なぜ人が、それを守っているのか」である。どんな意思で、その法に従っているのか。もちろんそこには「法の妥当性」という影もあるだろう。その法に妥当性があると認めていなければ、共通ルールにはならないからである。では様々な法体系に共通するルール、それは本当に同じ意味で共通していると言えるのだろうか

 私は、「言えない」と断言する。しかしそれはあまりに性急過ぎるかもしれない。また誤解を生むかもしれないので、「言えない」理由について少し説明することにする。私が認めないのは「同じ意味」での共通ルールである。同じ意味と言うのは「同じ意思」でそれを法と知って法に従っているということである。同じ意思、それは困難であろう。なぜならある人は協調性のある道徳的な意識を持って、それに従おうとし、またある人は宗教的な意識を背景としてその法に従うだろう。またある人は他人への思いやりの意思など一切持たず、ただ自分のためだけにその法に従おうとするかもしれないし、またある人は制裁を恐れてそれにしぶしぶ従っているのかもしれない。このように多様な意思の存在を想像するこ� ��ができる。これらの「法感覚」の解明を見落としてはならないのではないだろうか。

 しかし、なぜ、これほどまでに意思的要素が重要なのか次のセクションで述べよう。

 

(2)蟻(アリ)と人間の違い

 

 なぜ社会的ルールとしての法を考えるうえで内的視点の特に意思的要素が重要なのか、ここで証明しよう。蟻(アリ)の社会を考えてみてほしい(蜂でもよい)。蟻は人間よりも合理的な社会を持っているといわれる。蟻の社会では、ある程度仕事の分担がなされている。コロニー内のメンバーそれぞれが一生の仕事をきめられている場合もある。たとえば収穫アリのいくつかの種は、大きな頭部をもった働きアリだけが種子をかみくだく仕事をする。しかし、ほとんどの場合、仕事の分担は絶対的なものではなく、例えばもっとも体の大きい働きアリが防衛にあたり、中ぐらいの大きさのものは食物をさがし、もっとも小さなものが子育てをすることになっている。とはいえ、どの階級もすべての仕事をこ� ��すことができる。それぞれの働きアリが一時的に食物探し専門になったり、子育て専門になったりすることもある。このように、彼らは非常に見事に社会を構成してそれを維持している。社会的知能が発達しているのである。では蟻の社会の法則を内的視点で想像してみよう。彼らはそういうルールが存在し、自分がそれに従わなくてはいけないことを知っているだろう。ルールの認知はしていると予想できる。しかし意思的要素はどうだろうか。宗教的意識や道徳的意識をもってルールに従っているといえるだろうか。それは言えないのである。しかし、蟻と違い人間はルールに対して意思的要素を持っている。ここが重要なポイントである。蟻と人間の違い、それは内的視点、特に認知的要素ではなく意思的要素に あることが理解できただろうか。

 

(3)赤信号と道徳

 

(4)休憩としてのまとめ

 

私は自然法論にも法実証主義にも欠けていたのは「どうしてその法に従うのか」という意思的要素だと述べた。法に従うといってもそこには常識的に考えても様々な意思がある。道徳的意思だったり利己的な意思であったりする。例えばキリスト教支配が色濃い中世ヨーロッパのある社会であれば、法に従うのは「信仰心」からかもしれない。社会の構成員の誰もが顔見知りのようなアットホームな社会であれば、「友人に対する共感」からルールに従っている場合もあるだろう。ナチス政権下のドイツでは、制裁に対する「恐怖感」から不正な法に従ったものも多い。そのような様々な意思、「法感覚」を無視して、ただその法体系に共通するルール、社会が維持されるために必要であるとされる最低限のルールを考� �たとしても、それではまだ法の概念を考えるという点では足りないのである。なぜなら言語ゲームが違えば、同じ言語でも意味する内容が違うからである。意味する内容が違っていては、その違いを無視して共通する概念を掲げても、意味がない。

法実証主義は法の分析に集中するあまり、そして法と道徳の分離に固執するあまり、法に対する人間の心の働きをおろそかにしてきた。しかし法の概念をより正確に捉えるためには意思的要素を見逃すことはできない。

自然法論的な感覚からしても、「法の真理」「在るべき法」を探究する理由とは、その法があることで幸福度があがるなり、不幸度が減るなり、その対象が社会にしろ個人にしろ、道徳的に良い方向に前進したいという願望からなのであるから、道徳的な感覚を「法感覚」に含ませたいと思っているはずなのだ。したがって、その意思的要素を考慮していないまま提出された「最低限のルール」は悪法を撤退させる判断基準としては、いまだ力が不十分なはずである。

自然法論的な文脈では「道徳的直観」という言葉が良く使われる。ある種のルールに対して感じるその感覚。そこに属する「意思的要素=法感覚」を考察することで、本当の意味の「自明の真理」が見えてくるはずだ。

 

3. ふるいにかけられた法

 

(1)法の階層構造

 

ここで「自然法の最小限の内容」と「マキシミンルール」がどのように導き出されたかについて述べる。法の上位概念には様々な社会的ルール、例えば倫理や道徳、慣習があり、また自然法則がある。法の下位概念には、命令や禁止、制裁、裁判のルール、変更のルール、承認のルール、また基本的人権や生存権、自由権、があり、またその下位概念を見ると憲法、刑法、民法や国際法、そのまた下位概念には麻薬を規制したり、同性愛を禁止したり、車の左側通行を設定していたりする。そのような分析を続けていけば、法の持つ様々な要素が明らかになるだろう。そして法体系によって持つ属性に違いがあり、その属性の束の差異によってそれぞれの法体系の特徴が出てくるだろうし、また重なる属性も見� ��てくるだろう。もともと法の定義化が困難だとしたのは、その定義に使われる用語があいまいだということから発しているが、あいまい=多義的な要素を辛抱強く書き出していけば、「法の多義性」という事実に直面することができるだろう。

 しかしながら多義的ではあるが、その数多くの末端部分を属性の低いものから切り落として共通属性を抽出しまとめあげる作業を続けて行くと、法という基礎カテゴリーの範囲で、最も上位にある概念、つまり最も重なり合う属性が、なにかが明らかになるだろう。この概念のカテゴリー化はピラミッド型を取り、短い文章からなる命題で法の概念が、あらゆる段階で述べられる。最も頂点にあるのがどの法にも共通する要素となる。すると、それが共通ルール、最小限の内容になるのだろうか。外的視点から見ればそうである。では、それが真理といえるのか。それは言えないのである。なぜなら真理とは「事実そうである」だけでなく、人が、それを真理であると認めてはじめて、その特別な力 を持つからである。このようなカテゴリー化で分析を進めると、確かに法の属性や多義性は確認できる。それはどの法分析よりも、最も単純でわかりやすい方法である。 この方法を使うことによって、どんな法があるのか、という外的要素だけでなく、法がどの程度、認知されているのかも、分かるだろう。この方法をとれば、法の単純化はなされないが、定義の道筋を建設する事は可能になる。

 

(2)ピラミッドの頂点に来るのは真理?

 

しかし、ここでもやはり、意思的要素は解明できないのである。この方法を使えば、きっと、ハートのいう自然法の最小限の内容も、ロールズの正義の二原理もピラミッドの頂点付近に上がってくるだろう。それは結構なことだが、ただ「自明の真理」として考えたり、小さなシミュレーションで「これを選択するはずだ」と仮定したり、(確かにそれは納得のいく仮定ではあるが)そうして共通要素を導き出すだけでは、それを万民の法として拡張するには、まだ足りないのである。なぜならハートも述べているように、それはふるいにかければ自然に抽出されるものだからである。ということは、これは真理ではなくて、単なる事実である。しかも普遍性を確信できない単なる社会的な事実に過ぎない。あ� ��共通した言語をもつゲームの範疇にあるから、共通してみられるルールに過ぎないのかもしれない。よって、ハートのあげた「自然法の最小限の内容」やロールズの「正義の二原理」も同じ言語ゲーム内でのみ有効な真理だと、言えてしまうのである。

 

第3節  正義の実現に必要なこと

 

  ここまで様々な手法で法の概念を考えてきた。自然法論者は自然法則や神、また理性等、さまざまな観点から真理を探究し続けてきた。法実証主義者は法をいかに単純で美しい形にモデリングするか。数学の公式のような明快でシンプル、且つ、とても複雑で深遠な法の公式を追い求めてきた。そして19世紀において、それは極まり、どちらも純粋化されていったのである。しかし純粋化することは進歩なのだろうか。学問的な美を追い求めるあまり、法哲学は実用性からはなれ純粋化してしまった。そうした時期に世界大戦が続けて二度も起こった。それを許したのは法哲学に実用性がなかったからだという考えから、道徳をテーゼとする自然法論・正義論の再興がおこり、法実証主義陣営でも正義の要素を取り入れる思考が含まれるようになった。そしてハートの「自然法の最小限の内容」、ロールズの「正義の二原理」が時代の要請ともいうべく、出現したのである。これらの理論の提出は、法哲学の実用性を取り戻したといえよう。この理論の功績は大きい、

  しかし最低限のルールを作ってみても、それをそのままどの法体系にも適用できると考えるのは性急である。なぜならそれを拒否する人や社会への説得力が、「ふるいにかけたら、自然に残ったのです。」では足りないのである。そのような論理的で客観的な説得だけでは足りないのである。

  では何が必要か。それこそが、私が何度も繰り返している「意思的要素」なのである。あなたは「なぜ人を傷つけてはいけないのか」という問いに対して、道徳的直観を感じないだろうか。「人を傷つけるのを許しては、自分の安全を確保できず、社会秩序が保たれない。」という論理的思考から導き出される解答の前に、なんだかわからないが「嫌悪感」のようなもの「不快感」のようなもの、あるいは「畏怖感」のようなものを感じはしないだろうか。それが道徳的直観といわれるものである。そしてこれが私の言っている「意思的要素」なのである。

  意思的要素の説明は難しいだろう。なぜなら意思的要素が存在している領域は、悟性を超えた超構造にあるからだ。人が認識できるのは悟性で捉えられるものだと、つまり言語によって外延化できるものだとウィトゲンシュタインは述べている。カントも純粋悟性概念によっては、可能的経験の対象を表象することしかできないといっている。しかし続けて「理性の理念の対象を理性的に認識しようというのではなく、これらの理念に客観的実在性をあたえるのが純粋実践理性だ」といっている。私も同感である。その直観的な感覚というものが「ある」ということはしっていなくてはならない。そしてそれで十分なのかもしれない。しかし、私はその先も希望したい。少なくとも自分の「法感覚」が、つまりそれ� ��法と知っているからそれに従うという「認知的要素」だけではなく、どうして法に従うのかという「意思的要素」がどういう種類のものなのか、くらいは自覚する事が必要だといいたいのだ。自分が、どうしてその法にしたがっているのか、またどうしてその法が正しいと思うのか、それを自覚すること、自分の意識を自覚すること、それができなくては、他人にその法を認めてもらうことなどできないのではないだろうか。自分ですら自覚できていないものを他人に勧めるということは可能なのだろうか。

  自分の法感覚を自覚すること、それこそがマキシミンルールの拡張に必要なものである。そして私は自分の法感覚に「道徳的直観」という言葉を使うことは支持しない。各人の道徳、それは悟性(常識的意識)にどのような経験的知識が塗りこまれてきたかによって、変わってくる。道徳といっても、それこそ意味があいまいすぎる。どういうことを正しいと思っているのか、自分の心を客観的に批判的に観察し、自分の道徳観にどういう要素があるのか、またどういう傾向があるのか、それを自覚することが、まずなににもまして、最初の仕事、平等と自由を求めるための万民の法としての拡張に、必要なことなのである。そしてそれが行えたとき、異なる法感覚をもつ人々とも、感情的でない、理性的な対話が行えるだ� �う。相手の法感覚を理解し、また適切に批判する事によって、また相手の批判を適切に受け止めることによって、最小限のルールというのがゆっくりとしかし確実に構築されて行くのではないだろうか。

 

  法それ自体には道徳性はない。それを妥当だと守って行く姿勢に、またより良い法を作ろうとする人々の対話や交流、共感にこそ、道徳性があるのだ。私はこれを結論とする。

 

 

 「なぜ人を殺してはならないか」という問いから始まった道徳的直観の探求を、道徳的直観そのものを解明するのではなく、それを求めたり、もしくは拒否したりする人間の心を再認識する必要性を提起することによって一旦終える。私はその問いを聞いたとき、嫌悪感を持った。いや、聞いたときではなく、それへの反応を見たときである。タブーを口にするということは人間の隠された面を明らかにするための第一歩であり必要不可欠な発話であるはずなのに、その貴重な状況からまず知識人といわれる面々が逃げ出そうとしたのである。そのタブーを犯さないよう一度は直観的にその直球を避けたものの、その後は子供の倫理観がなくなってきたと悲観しながら、優しく厳しく子供に倫理観をどう説明す るかに議論は紛糾している。自分でも捉えにくい道徳的直観というものを人に説明するのは大変な労力を使う。よって自分の直観を説明するのは、たいていの人が嫌がる作業である。たとえば何かが必要で台所に物を取りに行ったのに、台所についたとたんに忘れてしまったという物忘れをしたとき、そのことを思い出そうと集中すればするほど、記憶のわずかな手がかりをつかもうとしてもするっと抜けてしまう、そういった経験は誰しもあるだろう。道徳的直観の作業もそれと同じである。近くにあるはずなのに、つかもうとすると手の隙間からするっと抜けてしまう。それを自覚するにはどうしたらいいか。私はこう思う。物忘れをしたときのように行動すればいいのだ。物忘れをしたとき、私はまず、それを思いついた場所にまで� ��ってみる。それが必要だと思った状況を再現するのだ。頭上には何があり、右手には何があり、左手には何があり、目前には何があり、何の作業中だったのか。再びそうしてみると記憶がよみがえらないだろうか。同じように道徳的直観を感じる状況、自分はどう行った状況でその存在を感じるか、それは人によって違いがあるが、各々がまず自分の道徳的直観の解明からはじめ、そしてそれを他人と比較し、その違いを発見し、それを近づけていくという作業が、本当の法の認識ということにつながっていくのだと、私は思う。

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

A・カウフマン『正義と平和』(竹下賢監訳,ミネルヴァ書房,1990

カント『実践理性批判』(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳,岩波書店,2000),『純粋理性批判』(篠田英雄訳,岩波文庫,2000

チャンドラン・クカサス,フィリップ・ペティット著『ロールズ正義論とその批判者たち』(山田八千子・嶋津 格訳, 勁草書房,1997

N.マコーミック『ハート法理学の全体像』(角田猛之編役,晃洋書房,1996)

ハート『法の概念』(矢崎光圀監訳,みすず書房,1976),『法学・哲学論集』(矢崎光圀・松浦好治他訳,みすず書房,1990)

ルソー『社会契約論』(桑原武夫・前川貞次郎訳,岩波書店,1999)『人間不平等起源論』(本田喜代治・平岡昇訳,2000) 

ロールズ『公正としての正義』(田中成明編訳,木鐸社,1979),「万民の法」(『人権について』)

ロナルド・ドウォーキン『法の帝国』(小林公訳,未来社,1995),『権利論』(木下毅・小林公・野坂泰史訳,木鐸社,1986),『ライフス・ドミニオン』(水谷英夫・小島妙子訳,信山社,1998

渥美東洋『法の原理T,U』(中央大学生協出版部,1993

川本隆史『ロールズ』(講談社,1997)

文芸春秋『「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら』 (文芸春秋,11月号,2000) 166頁以下

田中成明『法理学講義』(有斐閣,1994)

中山竜一『二十世紀の法思想』(岩波書店,2000)



These are our most popular posts:

法と道徳の関係

法. 法というものを常識的に簡単に定義すると、「秩序のために作られた人の行動を規律 するルール」とでも言える。哲学者の意見はともかく、一般認識では .... 外的視点」と「内 的視点」、私は特に内的視点にこだわって、法の根拠としての可能性を持っている道徳 的直観を考察していきたいと思う。 ..... この既存の法制度に対する批判的で客観的な 姿勢は、のちの法哲学の理論的枠組の基礎を作ることとなる。 ... 現実には不平等な 状態にあったとしても法律の前では平等な各人に、平等に給付や反対給付をすることで ある[9]。 read more

日本人のためのがん予防法:[がん情報サービス]

2011年1月5日 ... がん予防では、他のさまざまな条件とのバランスを考えて、がんのリスクをできるだけ 低く抑えることが目標になります。 ... 信頼のおける方法で行われた研究では、ある要因 によって特定のがんのリスクは何倍になるのかという具体的な結論が ... がん発生と 生活習慣のかかわりでは、どのリスク要因や予防要因が、どのがんに対し、どれくらい の可能性で関与しているか評価が行われます。 .... これら既知の発がん物質に対しては 、排除や暴露量の制限等、法律などにより規制されることが前提になります。 read more

5W1Hは実務の友 六何・八何の原則(5W1H,5W2H,6W1H,6W2H)が ...

文章のうまさとは、この5W1Hの語順と語尾をいろいろ使いまわすことができるという ことなのです。 .... 進め方として,可能な範囲で5W1Hをあらかじめ決めておくことには, 十分な合理性があり,仕事の進め方としては,むしろそうすること ... 注7) QCサークル 活動とは,グループ・メンバーの意欲,能力,工夫等により,仕事の管理,改善力を向上 させ,「Quality Control(品質管理)」を高めようと ... (5) 創造的な発想 「なぜ」(Why),「 どうやって」(How)の事項は,「危機管理」では後順位になるが,「問題解決の技法」では ,逆 ... read more

航空事故 - Wikipedia

... のも似たようなものではあるが、機体構造が衝撃を吸収してくれるため、墜落場所と 座席位置によっては生存できる可能性がある。 ... アメリカ国内において自動車に乗って 死亡事故に遭遇する確率は0.03%なので、その33分の1以下の確率ということになる。 ... しかし航空事故はさまざまな要因が複合して事故に至るものであり、多くの航空機や 人命を失った航空会社のみに安全性の問題 ... 性を高めるため報告書として一般公開 されることが原則となっており、しかもこれを民事訴訟で証拠として採用することは法律 で禁じ ... read more

0 件のコメント:

コメントを投稿