「なぜ人を殺してはいけないのか」すべてはここからはじまった
私が法哲学に興味を持ったのはこの言葉がきっかけだ。この疑問は、単なる論理的思考のための材料として自分に投げかけていたテーマである。戦争や死刑など「人を殺してはいけない」という前提に矛盾する現状は多々ある。また自分が自分自身に対して行う殺人「自殺」も矛盾する現象である。たしかにそれは社会秩序維持のためとして説明する事は簡単である。しかしこの疑問が単なる素朴で稚拙な問いかけであるにもかかわらず、この疑問を口にする事は、避けてきた。なぜかと考えると、この問いを発したら誤解されると思っていたからである。私はただ純粋に論理的思考訓練のための材料であると思っていたが、しかしそれでもこの問いかけはまわりに不快感を与えることは肌で感じていた。私自身は哲学的な� �ーマに対しては感情的にならずにできるかぎり客観的であろうと努めているので、その疑問に対する出どころ不詳の不快感はあまり感じないが、それでも人々に与える何らかの影響力がその問いかけには内包されることは知っていた。その奇妙な不快感、それはいったい何なのだろうか。
1997年の神戸児童殺傷事件のあとにおこなわれた、某討論番組での有名な一場面。「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供からの問いに知識人は一瞬絶句し、そしてそのあと、呆れてしまう人間もいれば、怒り出す人間もいた。しかし誰もまともに答えられなかった。論理的思考に慣れている人であってもそうなのである。理性をどこかに追いやってしまうほどの威力を持つその問い、その力の源泉はどこにあるのか、またそれはいったい何なのか。理性的な会話に慣れている論者をも直観的な不快感に翻弄させた、その原因はどこにあるのか。私はこの難題に挑戦してみたいと思った。
この問題はただ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に限られるものではない。「なぜ法に従わなくてはならないのか」これは「なぜ法に従っているのか」という問題に還元できる。なぜ私たちは法に従っているのだろうか。なぜ私たちは人を殺さないのか。
法
法というものを常識的に簡単に定義すると、「秩序のために作られた人の行動を規律するルール」とでも言える。哲学者の意見はともかく、一般認識では法とはこういうものを指している。人間として生きていく限り、社会集団の中で他人と共存していかねばならない。その状況の中で生き残るためには一定の基本的禁止事項からなる共通ルールを作り、その社会集団の構成員がそれを共通して遵守する事が必要である。ルール遵守を維持していくためには、他人に強調しないでルールを乱し、またルールに従って生活している人に危害を加えるような者に対する制裁、ルール遵守の強制、などのシステムも必要である。
法秩序はこのような理由から出現し上記のような基本的特徴を備えている。そしてこの秩序は「社会やそれに所属する者にとって重要なもの」をベースにしてルールが作られる事から、その中には不可避的に「道徳律」が含まれる。道徳は他人と協調しながら社会の中で生き残るため、心地よく生きるための約束事ともいえよう。法は秩序を維持するためのルールであるし、制裁や強制に裏付けられた実効力をもって、社会集団の秩序維持を遂行するのである。よってまず、その社会集団が何を重要と考えるかによって、その要求されうる約束やルールが変わってくる。集団構成員が社会に要求するものと、法が社会の要求するものがかけ離れていたら、構成員が自ら進んで法を守ろうという感覚を持つことは無いだろうし� �「集団の共通の価値を守る」という法の意味が薄れるだろう。であるから人々が道徳と考えるものを妨害する行動で、見逃す事の出来ないような行動を罰したり規制したりするものが法となるだろう。その道徳は社会集団の構成員の大多数が同意するものであり、大多数がルールを守ることで、秩序は維持され、法の役割が果たされるのである。このように法と道徳は重なり合う部分が多々あるのである。
その社会秩序の為のルールである法、その内容は時代や地域によって様々な内容にあふれていて、ある時代には犯罪(悪)にされたものが、次の時代には犯罪と認識されない(善)こともよくある。なぜそういった事が起こるのか。それは時間と場所、時の古今と洋の東西において価値観の違いがあるからである。またその道徳は社会の変化に応じて変化し、それを追うように法も変化していく。
以上が一般的な、法と道徳の関係に対する意識である。法と道徳の間には切っても切れない関係があること、道徳を踏まえて法が作られていること。法の領域は道徳の領域と一致はしないが、かなりの領域が重なり合い、影響しあっていることは誰の目にも明らかである。
そしてここから自然法論と法実証主義の対立は始まる。道徳を法に必然的なものと考えるか、そうではなく区別するべきか。前者は一般的には道徳的直観といわれているものの存在を仮定する。その仮定の仕方はさまざまである。自然法則からその存在を導き出すものもいる。極端な思考であれば「神」の存在と同列に扱われる。理性を純粋化していけば発見できるものだと考えるものもいる。後者はその存在うんぬんを考慮しない。明確に区別するのである。道徳は変化するものなのだから、もちろん道徳的直観というものも幻想に過ぎない。このスタンスから思考をはじめている。つまり自然法論であれ、法実証主義であれ、その源泉は同じなのである。人間の知性では到達できない「道徳的直感」があるらしい。� ��れに基づいて法を判断しようというのが自然法論。それは内容がよく分からないから法とは区別しておこうというのが法実証主義。この二つの思考方法はかなり異なるが、しかし根幹は同じである。「道徳的直感には触れないでおこう。」道徳的直観は幻想であるかもしれないし実際にあるのかもしれない。その存在は人間の理性では辿りつかない高みにあるため、判断は不可能かもしれない。しかしその困難を理解しつつ、それを真正面から捉えようとする試みこそが、法の根拠を見出す作業となるのではないだろうか。
また道徳的直観自体の意味と内容、そして道徳的直観が存在することを認識している人間の思考の意味と内容、それらは区別して考えていく必要がある。つまり道徳的直観があるとしたらそれは何なのかという問題と、道徳的直観の存在を「信じる」という人間の思考は何を意味しているのかという問題である。それはこの論文の中では「外的視点」と「内的視点」という言葉で表現されている。「外的視点」と「内的視点」、私は特に内的視点にこだわって、法の根拠としての可能性を持っている道徳的直観を考察していきたいと思う。
法と道徳の関係■目次
第1章 法とは何か エラー! ブックマークが定義されていません。
第1節 法を定義する 25
第2節 二つの理論 25
1.2種類の答え方 25
(1)古代ギリシャからの法の概念の対立とその影響 26
(2)中世の自然法論 27
(3)啓蒙思想 27
(4)イギリス分析法理学 28
(5)さらに進んだ法実証主義 28
(6)自然法論の再生 28
第2章 法と内在的道徳 29
第1節 はじめに 29
1.正義論・法の一般論・法律学的方法論 29
(1)正義論 29
(2)法の一般理論 29
(3)法律学的方法論 30
第2節 H.L.A.ハート 30
1.ハートの法理論に入る前に 30
(1)「定義づけ」への疑問 30
(2)ハートの思想的背景 30
2.『法の概念』の要約 31
(1)法的概念の明確化のための分析枠組 31
(2)内的視点・外的視点 31
(3)第一次的ルールと第二次的ルール 32
3.道徳を範疇に入れた法実証主義 32
(1)法と正義と道徳 32
(2)自然法の最小限の内容 33
第3節 ジョン・ロ−ルズ 34
1.正義論 34
(1)ロールズ正義論の背景 34
(2)正義論の内容 34
(3)万民の法 35
第4節 ロナルド・ドウォーキン 35
1.ドウォーキンの思想的背景 35
2.司法裁量論 35
第3章 道徳的直感 36
第1節 法に共通するもの 36
1.自然法論と法実証主義 36
2.目的論的自然観 36
3.ハート「自然法の最小限の内容」 37
4.ロールズ「正義の二原理」 37
5.ドウォーキン『原理』 37
第2節 法の妥当性 38
1.内的視点の欠如 38
(1)消化不良の原因は 38
(2)内的視点の意思的要素が欠けていた 38
2.法の妥当性 38
(1)共通ルールに対する意思 38
(2)蟻(アリ)と人間の違い 38
(3)赤信号と道徳 39
(4)休憩としてのまとめ 39
3.ふるいにかけられた法 39
(1)法の階層構造 40
(2)ピラミッドの頂点に来るのは真理? 40
第3節 正義の実現に必要なこと 40
おわりに 41
参考文献一覧
第1節 法を定義する
定義とはH.L.A.ハートの言葉を借りると次のように、定義されている。「定義は主として定義という言葉が示すように、言語の上で別々の言葉によって際立たされているある種のことと、他の種のこととの間に線を引き区別をすることである。」
例としてトラの定義をしてみよう。百科事典を引くとこのように記述されている。トラは、ほとんど肉のみを食物としている「哺乳類」のグループである「ネコ科」に所属している。しなやかで敏捷な体、やわらかな体毛、すぐれた視覚と聴覚、獲物をとりおさえ、ひきさくのに適した爪と歯をもつことが、この仲間の類似した特徴であり、トラはその「最大型種」にあたる。主にアジアに生息し身体は約2メートルから3メートルあり、「黄褐色の毛に暗色の縞」がある。ここで4つの言葉に注目してみよう。「哺乳類」「ネコ科」「最大型種」「黄褐色の毛に暗色の縞」トラはこの4つの言葉で定義できるのである。爬虫類ではなく、草食動物でもなく、すぐ近所で見ることができる体長40センチほどのネコとは違い、ライオンやチーターの毛皮の柄とも違う。このように最近類と種差による定義づけはもっとも単純で、誰もが納得できるものであろう。ではこの方法を用いて、トラと同じように法を定義する事は可能なのだろうか。
それは、できない。なぜならトラとは違い、法の定義をする際に用いられる言語自体があいまいで混乱した概念を持っているからである。例えば有斐閣法律用語辞典を引いてみるとこのように書いてある。「ほう【法】社会生活を規律する準則としての社会規範の一種」きわめて常識的な答えである。しかし「社会規範の一種」一種とまでしかいえないのである。それよりも下位の概念のことは辞典にも書いていない。この程度の定義では、社会生活を規律するものとしてマナーや礼儀もあげられるし、もしくは夜眠り昼働くという地球の自転に関係する自然科学的な事柄ですら、例外はあれどもたいていの人々の基本的社会生活のリズムはそれを基本にしているということから、社会生活を規律しているとい� ��るかもしれない。そしてこの法の定義の困難さが「法とはなにか」という一見単純な問いかけを繰り返すはめになった原因なのである。もちろん法の概念を捉えようとするときの障害となるのは、言語的な問題だけではないが、ただ「法とは何か」を考える時に社会学的に様々な社会の法体系の事実を調査すればおのずと見えてくるだろうという、常識的で現実的な意見に対しての、もっとも有力な反論として、法を考えるうえでの困難の一例として言語的なあいまいさを挙げた。
1. 二種類の答え方
「法とはなにか」と問われて、瞬間的に浮かぶのは「殺してはならない」「盗んではならない」「約束は守らなければいけない」などの基本的な命令や禁止の文言ではないだろうか。確かに法には、命令や禁止といった要素が含まれている。社会の中で紛争を予防し、また解決するために上にあげたような作為と不作為を求めるものが法である、というのは納得しやすい論理ではある。しかし、命令と禁止、それだけで、法の役割が終結しているのだろうか。その命令や禁止を人々が遵守する理由は「法は命令である」という答えだけでは見えてこない。命令の妥当性はどこにあるのかという疑問が当然生じてくる。(渥美『法の原理T』3頁)
また人間社会における法というのも、自然に見られる法則と同じものなのかという考えも挙げられるだろう。星の運行のように一定の法則が発見でき、それに従えば自然に生活が出来るとか、どんぐりであれば、その成長過程で鳥に食べられもせず、日あたりもよく水分も適度に補給される環境にあれば、数年後には樫の木に成長するだろう、などというような自然科学的事実から、人間の社会も「自然に従った」法があるのではないか、という考えもある。言い換えれば「自然な」とか「普通の」という言葉で表される、人間に共通する感覚を探求し、それに従ったものが法であるということ考えである。(ハート『法の概念』207頁)
この二つの考え方は、まったく違った観点から法を捉えようとしている。第一の例は法の内容の分析をしようとしている。法の中に、命令や禁止などの要素を見つけ、そこから法体系に共通する要素を見出そうとしている。第二の例は法の内容の分析と言うよりも、人間にとっての法の存在の意味自体を問おうとしている。法とは、人間に共通する法則とまではいわないでも、「法感覚」とでもいうような共通する感覚があるのではないか。「法とはなにか」という問いかけに対する、これら二つの異なる解答方法から、法哲学ははじまったのである。
さて、ここで法と道徳の関係に戻ってみる。上に述べた二つの解答方法は第一が法実証主義と呼ばれ、第二が自然法論と呼ばれている。法と道徳とは、単に事実上の関係があるだけでなく、より必然的な結びつきがある。道徳的規準という、より高次の道徳原理が存在し、その先験的な原理から、本当の法が導き出されるものだ、とするのが自然法論の考えである。それに対して法と道徳の間には概念上の結びつきはなく、法の存在は、それが道徳的に優れているか否かという問題とは区別して認識されるべきものだ、とするのが法実証主義である。これは極めておおざっぱに、二つの解答方法を説明したものである。以下の二節で古代ギリシャからの古い話題である、自然法論と法実証主義の対立について説明し� �いく。そして、これを土台にして二十世紀の法思想に移っていきたい。
(1)古代ギリシャからの法の概念の対立とその影響
紀元前5−4世紀のソフィスト達は法・慣習と自然(ノモスとピュシス)を区別し、法とは自己利益に根ざした人為的に作られた規制の形式であり、自然の自由に逆らうものととらえた。(田中『法理学講義』20頁)ソフィストの代表人物である、プロタゴラスは、万物の尺度をロゴスではなく人間と考えた。人間は経験的なものであると考えたプロタゴラスは、客観的真理を否定し、真理は知覚する主体に関係付けられ、そのため真理は相対的であるとする。しかしこの主観主義は個人的ではなく集団的なものである。そこで何が等しく、何が等しくないかを決めるのは、多数決となる。では、その集団は何が等しく、何が等しくないかを、何に従って判断するのだろうか。それにはこう答えている。人間が法に従う理由というのは自己利益以外の何者でもない。この既存の法制度に対する批判的で客観的な姿勢は、のちの法哲学の理論的枠組の基礎を作ることとなる。また「自己利益」という考え方は、のちの19世紀に出てきた功利主� �の考え方の基礎にもなっている。
ソクラテスは、なぜその法に従うのか、その命令や禁止に従う「べき」理由をといた。命令や禁止に背いた場合に、制裁が用意される。その制裁への恐怖心から法を遵守しているのだとすれば、それは道徳的に正しくない。「べき」理由とは、イデアやエイドスといった、ものの有性(本質)を意味している。法が法であるための有性を、ソクラテスは求めた。例をあげよう。
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